第3章
鈴鹿柚葉は二秒ほど黙り込み、ふたたびスーパーカーのエンジンをかけた。
見てやろう。――この家が、いったい何者なのか。
四十分ほど走り、市街地を抜けたところで、一本の私道へとハンドルを切る。
次の瞬間、視界がぱっとひらけた。
柚葉は反射的にブレーキを踏む。目の前に広がっていたのは、果てが見えないほどの荘園だった。
門から本館まで赤い絨毯がまっすぐに延び、両脇には花が咲き誇る。灯りが連なり、祝祭の飾りつけが風に揺れていた。
本館は欧風建築。アーチ状の大窓、尖塔が折り重なるようにそびえ、古い名家ならではの落ち着きと、圧のある品格が滲んでいる。
この一帯は土地の値段も桁違いだ。そこに、これだけの荘園を持つ――その意味は、考えるまでもない。
渡辺花子は、貧しい田舎だと言っていなかったか。
「お嬢様、到着でございます」
運転手の声に現実へ引き戻され、柚葉は短くうなずく。
「……うん」
ドアを押し開けて降り、赤絨毯へ足を踏み出した、そのとき。
横からピンクのスーパーカーが滑り込み、彼女の目の前でぴたりと停まった。
ガルウィングが跳ね上がり、金髪のゆるい巻き髪にハイブランドをまとった少女が降りてくる。顔いっぱいの笑み――その奥には、それが当然だと言わんばかりの優越感が滲んでいた。
「中村さん、ちょっと旅行してただけなのに、何この大げさな歓迎? パパとママにサプライズするつもりだったのに」
責める口ぶりのくせに、嬉しさを隠す気もない。
そして少女は柚葉に気づくと、頭の先から足元まで値踏みするように眺め、安物の服に露骨な軽蔑を滲ませた。
「あなた、新人?」
顎を持ち上げ、命令する。
「ぼーっとしないで、私の荷物運んで。あとお茶。暑くて死にそうなんだけど」
柚葉は両手をポケットに突っ込んだまま、少女を見返す。表情は、動かない。
少女の眉がつり上がる。
「……耳、聞こえないの?」
そのとき、規則正しい足音が遠くから近づいてきた。
燕尾服の男が先頭で現れる。灰白の髪をきっちり撫でつけ、口元には恭しい笑み。執事然とした佇まいのまま一行を引き連れ、柚葉の前で揃って立ち止まった。
そして、深々と頭を下げる。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
少女の顔から、傲慢が一瞬で凍り落ちた。
「……石川さん? 何を言ってるの? お嬢様って……」
石川は、今ようやく彼女が目に入ったかのように淡々と言う。
「次女様。こちらが旦那様と奥様の実のご息女でいらっしゃいます。本日ご帰宅されました。私はお嬢様をご案内いたします」
そう告げると、石川は身を引き、最上級の礼で導いた。
「お嬢様、こちらへ」
柚葉は小さくうなずき、少女の横を通り過ぎる。視線すら向けず、ただまっすぐに。
夏川音子はその場に立ち尽くした。血の気が引いていく。
幼いころから、自分が夏川家の実子ではないことは知っていた。
それでも――ここまでずっと、自分は夏川家の一人娘として扱われてきた。周囲も、どこか二歩引きながら持ち上げてくれた。
けれど今、本物が戻ってきた。
自分は、いったい何になる。
音子は拳を握りしめた。爪が掌に食い込んでも、痛みは遠い。
柚葉は石川に案内され、本館へ入る。
玄関をくぐった瞬間、山瀬美玖が早足で駆け寄ってきた。
目が真っ赤だ。抱きしめたいのに、躊躇って手が止まる。
「柚葉……わ、私は……ママよ……私の子……やっと、帰ってきたのね……」
続いて、夏川明延の声。掠れている。
「つらい思いをさせた。すまなかった」
柚葉は実の両親を見つめた。
二人とも必死に堪えているのに、痛みと後悔が目に溜まり、今にも零れそうだった。
「つらくないよ」
柚葉は口元をわずかに上げる。
「本当に」
美玖は堪えきれず、彼女を抱きしめた。ぎゅうっと、逃がさない強さで。
嗚咽が止まらない。
「可哀想な子……鈴鹿家でちゃんとご飯食べさせてもらってた? こんなに痩せて……ママが悪かった……外で苦労させて……」
息が詰まり、柚葉は二秒ほど硬直してから、そっと背中を叩いた。
「お母さん、ちゃんと食べてた。飢えてない」
美玖の涙は、むしろ勢いを増す。
明延は妻を宥めながらも、視線だけはずっと娘に釘づけだった。瞬きしたら消えてしまいそうで、怖いというように。
「ほらほら、帰ってきたんだ。泣くと夜、目が痛いぞ」
柚葉は我慢するつもりだったが、腕の力が緩まない。
「お母さん……息、できない」
美玖ははっとして慌てて手を離し、涙を拭いながら照れくさそうに笑った。
「ごめんね、嬉しくて……」
明延がティッシュを差し出す。美玖は鼻をかみながらも、柚葉の手だけはぎゅっと握ったまま離さない。
そこへ、甘ったるい声が玄関から響いた。
「パパ、ママ。お姉ちゃんが帰ってきて本当によかった」
夏川音子が入ってくる。可愛らしい笑み――けれど瞳の奥は濁っていた。
「ずっとお姉ちゃんが欲しかったの。これからは一緒にいられるね」
美玖が音子を見て、柚葉へ説明する。
「そうだ、柚葉。音子よ。あなたの妹」
柚葉は淡くうなずく。
「はじめまして」
その淡さが、音子には見下しに見えた。視線が陰る。
唇を噛み、困ったふりで切り出す。
「それで……パパ、ママ。来月、伊能家との婚約パーティーが……」
柚葉をちらりと見て、すぐに伏せる。
「お姉ちゃんが戻ったなら、本来この婚約はお姉ちゃんのもの……私、私が代わりに名乗ってただけで……お姉ちゃんが戻った今、私は……」
リビングの空気が、すっと変わる。
美玖は反射的に明延を見る。
明延の表情が固い。この縁談は本来、実の娘のためのものだった。音子が一人娘として振る舞い続けたから、話が進んだ――今となっては、扱いが難しい。
音子は気づかぬふりで、柚葉の反応を盗み見た。
もし柚葉が「本来は私のもの」と言えば、その瞬間に泣いて被害者になれる。
「婚約には興味ない」
柚葉は気のない調子で言う。
「欲しいなら、そのまま持ってて。今まで通りでいい」
音子が固まった。
奪い合いになると思っていた。揉めると思っていた。
まさか、いらないと突き放されるなんて。
施されたような感覚が、奪われるより腹立たしい。
明延が咳払いし、沈黙を裂く。
「その話は後だ。今はまず、皆に知らせる。――私の娘が戻ったと」
美玖も我に返る。
「そうよそうよ。お披露目のパーティーも用意したの。蘭庭ホテル、本市で一番の高級ホテルよ。おじいさまも先に待ってる。すぐ行きましょう?」
柚葉はうなずく。
「うん」
音子は三人の背を見つめ、奥歯を噛みしめた。
三十分後、車は蘭庭ホテルの正面に停車する。
柚葉は降りて、金色に煌めく建物を見上げた。
眉がわずかに寄る。
……どこかで見たような。
「どうしたの、柚葉?」
美玖が腕に絡む。
「なんでもない」
柚葉は視線を戻した。
