第4章
一家そろって、ホテル最大の宴会場へ足を踏み入れた。
客はすでに出そろい、グラスが触れ合う澄んだ音と笑い声が渦を巻く。熱気で空気まで揺れているようだった。
主賓席の中央にいるのは、白髪の老人。背筋はしゃんと伸び、目の光も鋭い。隣の人物に何か語りかけていたが――鈴鹿柚葉の姿を認めた瞬間、ぱっと立ち上がった。
「柚葉……わしの孫娘……」
目尻が赤い。老人は一歩、前へ踏み出し――次の瞬間、ぐらりと身体が傾いた。
「おじいさま!」
いちばん近くにいた夏川音子が真っ先に駆け寄り、鞄をひっくり返す勢いで薬瓶を探る。
「おじいさまは心臓が悪いの! これ――」
「触らないで」
鈴鹿柚葉が間合いに入る。音子の手から薬瓶を取り上げ、蓋をひねって匂いを確かめた。ふっと眉が寄る。
「それ、飲んだらだめ」
ざわめきが、すうっと消えた。広い宴会場が一瞬で凍りつく。
若い男が鼻で笑う。
「渡辺健弘教授が処方した薬ですよ。大旦那様の心臓のために調整されたものだ。あなたが『だめ』と言ったら、だめになるって?」
山瀬織斗が鈴鹿柚葉を睨むように見た。
「君がうちの従姉か。……ふざけるなよ。この人は渡辺教授の教え子だ。音子が祖父のことを心配して、わざわざ呼んだんだ」
夏川音子もすぐに頷き、困ったように微笑む。
「お姉ちゃんも善意なのは分かるよ。でも、お姉ちゃんが通ってた学校だと、こういう医療のことってあまり触れないかもしれないし……おじいさまのことは、専門の方に任せよう?」
そして、わざとらしくため息をついた。
「だって、その学校……私、ほとんど聞いたことなくて……」
鈴鹿柚葉は、渡辺健弘の学生だという男をまっすぐ見据えた。声は冷えたまま。
「渡辺教授に、あなたみたいな学生がいたなんて聞いたことない」
男の顔色が変わる。
「……どういう意味だ」
「どういう意味?」
鈴鹿柚葉は口元だけ、かすかに吊り上げた。
「去年、渡辺教授が研究不正で破門した学生がいる。雰囲気、そっくり」
男の顔から血の気が引き、次いで怒りで歪む。
「でたらめ言うな――!」
鈴鹿柚葉は相手にしない。スマホを取り出し、その場で通話ボタンを押した。
呼び出しはすぐに繋がり、受話口から老いた声が響く。だが張りがあり、そしてどこか、やけに慎重だ。
『柚葉?! やっと電話をくれたのか! もう忘れられたのかと思って――』
男はその声だけで理解したのだろう。白かった顔が、みるみる青くなる。
鈴鹿柚葉は男に視線を据えたまま、淡々と告げる。
「渡辺教授。あなたに、学生がいますか」
山瀬織斗が口を挟む。
「名前は前田亮太だ」
「前田亮太。三十代前半くらいで、眼鏡」
『いる。去年、研究不正で処分した。私の研究室から叩き出した人間だ』
前田亮太の膝が、目に見えて震えた。
鈴鹿柚葉は通話を切る。
しん、とした沈黙が落ちる。誰も息をするのを忘れたみたいに。
山瀬織斗の疑いの表情が、呆然へ変わった。
夏川音子も口を開けたまま硬直し、貼りつけていた笑みが崩れ落ちる。慌てて前田との距離を取った。
「わ、私、知らなかった……! この人が自分で『渡辺教授の学生』って言ってて……私だって、おじいさまが心配で……!」
鈴鹿柚葉は一瞥すらくれない。自分の鞄から別の薬瓶を取り出し、錠剤を一粒だけ掌に落とした。
「おじいさま。口を開けて」
大旦那様は朦朧としたまま薬を飲み込む。
――三十秒も経たないうちに、ぴくりと瞼が動いた。ゆっくりと目が開く。
「……柚葉?」
声はまだ掠れているが、意識は戻っている。
「わしは、どうした……?」
「大丈夫。低血糖です」
鈴鹿柚葉は薬瓶をしまった。
「飴でも舐めれば落ち着きます」
山瀬織斗は鈴鹿柚葉を凝視した。目の色が、何度も揺れ変わる。
彼はスマホを取り出し、誰かにメッセージを飛ばす。
【新しく戻ってきた従姉が、どこの学校にいたのか調べて】
そのとき、鈴鹿柚葉のスマホが鳴った。
画面を見た彼女の眉が、わずかに動く。
「お父さん、お母さん。電話、出てくる」
「行っておいで。迷わない?」と山瀬美玖が心配そうに言う。
「平気」
鈴鹿柚葉は踵を返し、宴会場を出る。廊下に出たところで通話に出た。
五分後。
電話を切って戻ろうとした鈴鹿柚葉は、曲がり角を抜けたところで人の群れと鉢合わせた。
鈴鹿家の三人――。
渡辺花子が鈴鹿柚葉を認め、ぴたりと足を止める。次いで、冷笑が浮かんだ。
「鈴鹿柚葉? なんでここにいるの?」
鈴鹿征江も疑うように目を細める。
「まさか……こっそり付いて入ったのか」
「招待で来た」
鈴鹿柚葉は冷たく言い捨てる。
因縁とは、こういうものだ。
鈴鹿星乃が口元を手で隠し、くすくす笑う。瞳の奥には嘲りが濃い。
「ねえパパ、ママ。絶対、紛れ込んだんだよ。今日このホテルでやってるのは夏川家のお披露目パーティーだけ。まさかこの人、夏川家の娘だって言うつもり?」
「招待って、どの招待よ」
渡辺花子の顔が険しくなる。彼女は脇のスタッフに手を振った。
「つまみ出して」
スタッフが一歩、近づこうとした、その瞬間――
タタタッ、と切迫した足音が廊下の奥から押し寄せた。
黒服のボディーガードが五、六人。一直線に駆けてきて、渡辺花子一家の前へ横並びに立ちはだかる。
「皆様、これ以上はお入りいただけません」
渡辺花子が目を吊り上げる。
「はあ? 私たちはお披露目パーティーの招待客よ!」
ボディーガードは表情ひとつ変えない。渡辺花子を一切見ず、淡々とリストを提示する。
「鈴鹿様、鈴鹿奥様。確認いたしましたところ、お持ちの招待状のシリアルコードは有効な登録が確認できませんでした。また、受付での大声による迷惑行為、および来賓を偽ってのご入場が確認されております。夏川家よりご入場をお断りするよう申し付かっておりますので、速やかにご退場ください。お従いいただけない場合は、やむを得ず然るべき措置を取らせていただきます」
鈴鹿征江が噛みつこうとした、そのとき。
視界の端、廊下の向こうから近づいてくる影があった。
銀灰のスーツ。長身、長い脚。眉目は冷え、近寄るだけで空気が重くなる。
伊能黎真。
その視線が、渡辺花子一家を越えて鈴鹿柚葉へ落ちた。
鈴鹿柚葉も目を上げ、真正面から受け止める。
一瞬。
互いの瞳に浮かぶのは、何の感情もない静けさだけ。
鈴鹿星乃の唇が震えた。
「い、伊能様……なんで、あの人を見るの……?」
次の瞬間、伊能黎真は何事もなかったように視線を引き、宴会場の扉へ消えていった。
鈴鹿家の三人は、目に見えて息を吐く。
「ほら、ママ。伊能様、あの人のことなんて知らないんだよ。たまたま見ただけ」
渡辺花子のこわばりも少し緩む。冷笑が戻った。
「でしょうね。あの子が、まさか――」
「皆様、ご退場ください」
ボディーガードの声が、容赦なく遮る。
渡辺花子の顔が歪む。
「だから、私たちはお披露目パーティーの――!」
「招待状のシリアルが確認できません」
無機質な声が返る。
「退場いただけない場合、実力行使となります」
廊下には通りがかりの客が増えていく。ちらちらと視線が刺さり、ひそひそ声が湧く。
「あれ、鈴鹿家の連中じゃない? 外で止められてる」
「入口で大騒ぎしたって聞いた。資格取り消されたんだろ」
「うわ……恥ずかしすぎる……」
渡辺花子の顔色が青から白へと転がった。ボディーガードの一切ぶれない態度を見て、遅れて何かに気づいたように息を呑む。
彼女は鈴鹿柚葉を睨み、声を震わせた。
「あなた……いったい、何者なの……?」
鈴鹿柚葉は振り返らない。
金色に輝く宴会場の大扉へ、まっすぐ歩いていく。
鈴鹿家の三人に残されたのは――触れられないほど遠い、その背中だけだった。
