第5章

 渡辺花子たちは警備員に付き添われ、ホテルの正面玄関から追い出されるように外へ出た。

 夜風に煽られた瞬間、鈴鹿星乃の頬がじりじりと熱を帯びた。まるで何十発も平手打ちを食らったみたいに。

「ママ! このまま追い返されて終わりなの?」

 渡辺花子は奥歯を噛みしめる。

「帰ってから話すわ」

 振り返った先、煌々と灯る蘭庭ホテル。渡辺花子の瞳には、どす黒いものが沈んでいた。

 鈴鹿柚葉――あの子、いったいどうやって中に入ったのよ。

     ◇

 その頃、鈴鹿柚葉は宴会場へ戻っていた。

 山瀬美玖がすぐさま駆け寄り、腕に絡みつく。

「柚葉ちゃん、遅かったね。迷ったのかと思って、人に探させようとしてたのよ」

「電話が長引いちゃって」

 鈴鹿柚葉は淡く笑う。

 美玖も深追いはせず、そのまま主卓へ引っ張っていった。

 大旦那様はすっかり目が冴えたらしく、顔色もいい。鈴鹿柚葉の手を取って、上機嫌に話しかける。

「いい子だ。じいちゃんは最初から分かってたよ。外の、ああいう派手なだけの連中とは違うってな」

 それから、ふと思い出したように眉をひそめた。

「そうだ、さっき伊能家の坊主がな、贈り物だけ置いて帰っちまった。惜しかったな。お前ら、顔合わせられんかったろうに……」

 いかにも残念そうだが、鈴鹿柚葉は伊能黎に興味が薄く、気にも留めなかった。

 そのとき――

 宴会場の扉が、外から乱暴に押し開けられた。

 がたん、と空気が跳ねる。

 白髪交じりで、灰色の服を着た老人が勢いよく飛び込んでくる。背後には、息を切らした助手が二人。

 客たちが一斉に固まった。

「……渡辺教授じゃないか?」

「なんで急に?」

 渡辺健弘は視線を走らせ、鈴鹿柚葉を見つけるや否や、一直線に詰め寄った。三歩が二歩に縮む勢いで。

「柚葉! もう一度、考え直してくれ! 君の才能は百年に一人だ、計り知れない……頼む! 私の弟子になってくれ!」

 場内がざわめきでは済まなかった。

 あの渡辺健弘が。

 二十そこそこの女の子を追いかけて、弟子入りを懇願している。

 夏川音子の目に、信じがたい色が走る。なんとか口角を作って、絞り出すように言った。

「渡辺教授……お、お人違いでは? この方、名の知れた大学でもありませんし……」

 渡辺健弘の表情が、すっと沈む。夏川音子へ向けた声も冷えた。

「……今、なんと言った?」

 その一瞥だけで、夏川音子の背筋がひやりとした。口が、ぱくぱくと空回りする。

 渡辺健弘はもう相手にしない。鈴鹿柚葉だけを見つめ、焦れたように身を乗り出す。

「柚葉、頼む。私は何でも教えられる――」

 そのとき、山瀬織斗のスマホがぶるっと震えた。彼は画面を一瞥し、瞳孔がわずかに縮む。

 山瀬織斗は画面を暗転させ、複雑な目で鈴鹿柚葉を見た。

 大旦那様は笑いが止まらず、ばんばんと卓を叩く。

「一目で偽物だって見抜いたんだからなあ! うちの孫はやっぱり大したもんだ!」

 周囲の年長者たちも、口々に後押しを始める。

「柚葉さん、渡辺先生がわざわざ来てくださったんだ。受けなさい」

「こんな機会、頼んだって来ないよ」

 あっちからもこっちからも、同意の波。

 渡辺健弘はうんうんと大きく頷き、今にもその場で返事をもらえたら外を三周してきそうな勢いだ。

 鈴鹿柚葉は、ふう、と小さく息を吐いた。

「ほんとに時間がないんです。忙しくて」

「なら待つ! いつでもいい、君の都合に合わせる!」

「分かりません」

 鈴鹿柚葉は渡辺健弘ではなく、大旦那様を見た。

「おじいさま、休まないと」

 大旦那様はにこにこ頷く。

「うんうん、孫の言う通りだ」

 渡辺健弘はまだ食い下がりたそうだったが、鈴鹿柚葉はもう視線すらくれない。

 彼は歯噛みし、助手から紙とペンをひったくるように受け取ると、さらさらと処方を書き上げ、美玖へ渡した。

「大旦那様の体調を整える薬だ。私が自分で調合する。明日、薬を届けさせる」

 美玖が受け取って呆けている間に、渡辺健弘は鈴鹿柚葉の背中を追って二、三歩。

「柚葉! どこに住んでる? 明日、私が――」

 鈴鹿柚葉は振り返りもしないまま、さっと姿を消した。

 まさか医学界の大御所が、ここまでしつこいとは。

     ◇

 翌日。

 鈴鹿柚葉が身支度を整えて階下へ降りると、リビングに見知らぬ男が二人増えていた。

 一人は、切れ長の目が鋭い。纏う気配は夏川明延と同質だが、もっと若く、もっと冷たい。

 もう一人はソファにもたれてスマホをいじり、青いカジュアルな服。手首には限定のスポーツウォッチが光っている。

 山瀬美玖が二人と話していたが、足音に気づくと立ち上がり、鈴鹿柚葉を引き寄せた。

「柚葉ちゃん、紹介するね。雅之兄さん、夏川雅之。こっちは瀬尾兄さん、夏川瀬尾。あなたが戻ったって聞いて、昨日の夜に急いで帰ってきたのよ」

 二人の視線が、鈴鹿柚葉へ落ちる。

 夏川雅之は手元の書類を置き、ブラックカードを一枚差し出した。

「顔合わせの礼だ。限度額なし」

 鈴鹿柚葉はぱち、と瞬きをする。初手から重い。

「ありがとうございます。でも私、足りて――」

 言い切る前に、夏川雅之は手のひらへねじ込むように押し込んだ。

「受け取れ」

 美玖もすかさず助け舟。

「兄さんがくれるなら貰いなさい。初対面なんだから、当然よ」

「……ありがとうございます、兄さん」

 夏川瀬尾がソファからぴょんと跳ね起き、にやにやしながらヘルメットを差し出した。

「柚葉、これ。俺のチャンピオンヘルメット、やるよ」

 鈴鹿柚葉は一目で分かった。去年の国際レース優勝モデル――世界に一つの限定品だ。

「これは……さすがに高すぎる」

「何言ってんだよ、妹だろ」

 夏川瀬尾はひらひらと手を振り、軽い口調のまま続ける。

「レース好きなんだって? 今度、兄貴がサーキット連れてってやるよ。走ろうぜ」

 そこへ、大旦那様が杖をつきながら二階から降りてきた。後ろには弁護士が控えている。

 大旦那様は上機嫌に手招きした。

「柚葉、こっちへおいで」

 主位に腰を下ろすと、弁護士に目配せし、書類を鈴鹿柚葉の前へ滑らせる。

「これはな、夏川家の中枢を担う嫡系だけに認められた、家族信託の持ち分だ。音子は夏川家で育ったが、あの子は信託の承継者じゃない。だから、わしや君の父母でも、勝手に動かせない部分がある」

 大旦那様は言い切るように、書類を指でとんと叩いた。

「だが、これは君のものだ。必ず受け取れ」

 ちょうどそのとき、夏川音子が階段を降りてきて――言葉を聞いた瞬間、足が止まった。

 信託の持ち分。

 自分はこんなに長くここにいて、1%すら手にしたことがない。養女だから? おじいさまは、そこまで露骨に線を引くの?

 鈴鹿柚葉は眉を寄せる。

「おじいさま、これは受け取れません」

「君は夏川の孫だ。君のものだ」

 大旦那様は譲らない。

 夏川雅之も頷き、夏川瀬尾まで重ねる。

「受け取っとけよ。じいちゃんの愛だって」

 夏川音子は指先を掌に食い込ませた。

 十八年かけて築いた居場所が、あいつが戻っただけで消えていく――そんなの、認められない。

 彼女は深く息を吸い、胸の底から湧き上がる嫉妬を押し潰す。そして、柔らかな微笑みという仮面を貼り付け、優しい声音で言った。

「おじいさま。お姉さまはまだ戻られたばかりで、家の事業にも不慣れです。いきなりこれほどの持ち分を移すと、外の目が……」

 ちらり、と鈴鹿柚葉を見て、すぐに伏せる。

「よければ私がそばでお姉さまをお支えして、まずは慣れていただく期間を作りませんか」

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