第6章

「……どういう意味だよ?」

 夏川瀬尾は眉をひそめ、遠慮の欠片もなく言い放った。

「じいちゃんの株は、じいちゃんが誰に渡そうが勝手だろ。お前に関係あるか? 首、突っ込みすぎじゃね?」

 夏川音子の顔から血の気が引いた。瀬尾が自分を好いていないのは分かっていたが、鈴鹿柚葉の目の前でここまで言うとは思っていなかったのだろう。

 音子は口元を押さえたまま、泣きながら走って出ていった。

 その背中を見送りながら、瀬尾が首をかしげてぼそっと漏らす。

「……なんで泣くんだ?」

 だって事実だ。

 じいちゃんの株を誰にやろうが、口を挟む資格なんて、誰にもない。

 数日など、瞬きのうちに過ぎた。

 鈴鹿柚葉は家で、堂々のニート生活に突入する。

 自然に目が覚めるまで寝て、起きたら食べて遊ぶ。

 山瀬美玖は、美味しいものも面白いものも、世界中の全部を柚葉の前に積み上げたがっていた。

 その日の午後。

 夏川瀬尾が二階から降りてきた。指先で車のキーをくるりと回しながら、ソファに丸まって果物をつつく柚葉を見つけると、にやりと寄ってくる。

「柚葉、午後レースあるんだけどさ。見に来る?」

 柚葉は即座にフォークを置き、目をわずかに輝かせた。

「私、運転していい?」

 瀬尾が笑う。

「いいぞ。うち、レースチームあるし。君用に一台、用意させる」

「じゃあ行く」

 ちょうどそのとき、夏川音子が部屋から出てきた。

 その視線が、ひそやかに柚葉をなぞる。

 音子は小走りで近づき、愛想のいい笑みを貼りつけた。

「瀬尾兄さん、私も行きたい。連れてって?」

 瀬尾は意外そうに音子を見た。音子は今までレースに興味を示したことがない。だが深くは考えず、軽く頷く。

「いいよ。一緒に行くか」

 音子は甘く笑った。

「ありがとう、瀬尾兄さん」

 三人で出発する。

 サーキットに着くと、瀬尾が車を降りた瞬間、チームの連中がわっと集まってきた。

「瀬尾さん、来たっすか!」

「今日、調子どうです?」

「調子いい」

 瀬尾は得意げに胸を張る。

「今日は妹連れてきた。面倒、ちゃんと見てやってくれよ」

 数人の視線が、柚葉と音子へと流れた。冗談めかした笑いが起こる。

「瀬尾さん、妹さん二人、タイプ違うっすね。どっちも可愛い」

「クール系と甘い系。夏川家、遺伝子強すぎでしょ」

 音子はその言葉に、口元が自然と緩んだ。

 そして、さりげなく柚葉を盗み見る。どう反応するか見たかった。

 だが柚葉は、そんな話など耳に入っていない。

 視線は、コースを駆け抜けていくマシンに釘づけだ。胸の奥がうずくように、今にも走り出したそうな顔。

 音子の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。

 瀬尾は何も気づかず、柚葉の腕を引いてガレージへ向かう。

「ほら、車見に行くぞ。いいの用意する」

 ガレージには、トップクラスのマシンがずらりと整列していた。

 瀬尾が銀色の一台を指さす。

「これ、いま調整上がったばっか。馬力も一番出る。試す?」

 柚葉は近づき、車体に指先で触れた。口角がわずかに上がる。

「いい」

 乗り込んでシートベルトを締める。

 次の瞬間――ブォン……!

 柚葉がアクセルを踏み抜き、マシンは弾丸みたいに飛び出した。

 タコメーターの針が一気に7000回転へ跳ね上がり、低い咆哮が腹に響く。背中がシートに叩きつけられた。

 最初のコーナーは、ほぼ90度の右。

 本来ならブレーキングポイントは、進入の手前80メートル。

 柚葉は減速する気配すら見せない。ブレーキを限界まで引っぱり、最後の一瞬で踏み込んだ。

 荷重が前へ移り、リアのグリップが抜ける。

 ハンドルを切る――車尾がするりと外へ振れた。

 キィィィッ!

 タイヤが悲鳴を上げて路面を削り、煙と砂が舞い上がる――完璧な振り子ドリフト。

 立ち上がりでブレーキを抜き、アクセルを全開。

 マシンがびゅんっと跳ねるように加速した。

 無駄のない、切れ味。進入速度は少なくとも140は出ている。

 瀬尾は、柚葉が飛ばしすぎていると心配して呼び戻すつもりだった。

 だが今のドリフトを見た瞬間、口が開いたまま固まった。

 チームマネージャーも、メンバーも、目を丸くする。

「やっば……瀬尾さん、妹さんプロっすか?」

「この腕、やってたでしょ!」

「妹さん、カッコよすぎ!」

 瀬尾は褒め言葉を浴びて、気分よく笑った。

「俺の妹だぞ。上手くて当然だろ」

 音子の笑みが、少しずつ、音もなく崩れていく……。

 瀬尾兄さんが、こんなふうに得意げに自慢したことなんてない。

 一緒に育った自分より、鈴鹿柚葉という「本当の妹」のほうが重いの?

 ほどなくして、銀色のマシンが目の前に滑り込んで止まった。

 柚葉は上機嫌で降りてくる。

「柚葉、どうだった? 昔、習ってた?」

 瀬尾のほうが誰より興味津々だった。

「練習はしてない。でもレースはよく見てた」

 柚葉は唇を小さく吊り上げる。

「この車、手に馴染む。瀬尾兄さん、正式コースで一周走っていい?」

 目が、はっきり言っていた。まだ遊び足りない。

 瀬尾も、さっきの走りで血が沸いている。勢いのままマネージャーを振り返った。

「一周、走らせていいか?」

 マネージャーは一瞬ためらう。

「正式コースは……安全面が――」

「今の見たろ?」

 瀬尾が睨む。

 柚葉は遠くのうねるコースを見据えた。

「走れる?」

 瀬尾は太ももを叩く。

「よし、やる。待ってろ」

「正式コースならタイヤ替えないと。スリックタイヤに交換だ」

 瀬尾はマネージャーと手早く打ち合わせる。

 整備員が呼ばれ、マシンは整備エリアへ押し込まれた。

 その様子を見て、音子の胸に小さな火が灯る。

「お姉ちゃん、私トイレ行ってくるね。あとで走るところ見に来る」

 柚葉は気にも留めず、軽く頷いた。未開封のミネラルウォーターを一本手に取る。

 五分後。

 手配を終えて戻ってきた瀬尾が、柚葉に大きく手を振った。

「柚葉、行けるぞ! 正式コースは一周だけな。安全第一!」

「分かった」

 柚葉はドアを開け、ゆっくりと整備エリアから出し、コースへ乗せた。

 走り出した銀色のマシンは、じわじわと速度を上げる。

 コーナリングは鋭く、淀みがない。

 瀬尾は見やすいようにスタンドへ移動し、スマホを掲げて撮影を始めた。

「このコーナーの入りが――」

 そのとき。

 コースの先は、連続ヘアピンのセクション。左右が入れ替わる三連の反転コーナーで、全区間でもっとも危険な区間だ。

 セオリーは、進入手前で強く踏み、三速まで落とし、インに寄せ、立ち上がりで即座に反対側へ切り返す。

 柚葉は、進入手前100メートルで減速するつもりでブレーキを踏んだ。

 ――おかしい。

 踏み込んだ瞬間、ペダルの感触が違った。

 ストロークが普段より三分の一は深い。踏み返す力がほぼなく、ぐにゃりと沈む。まるで水を吸ったスポンジだ。

 マスターシリンダーか、ラインか。

 どこかが死んでいる。

 柚葉の瞳が、きゅっと縮む。

 判断は一瞬だった。冷静にバックミラーを掃く。

 前は連続コーナー。右は岩肌。左はガードレール。その下は十数メートルの斜面。

 落ちたら終わりだ。

 柚葉はハンドルを強く握り、シフトダウンでエンジンブレーキをかける。

 220から180へ。

 だが、コーナーはもう目の前。

 180でヘアピンに突っ込めば、ひっくり返る。

 スタンドの瀬尾は異変に気づかず、興奮したまま撮り続けていた。

 少し離れた場所で、伊能黎真がコーヒーカップを置く。

 銀色のマシンを睨むように見つめ、目を細めた。

 ブレーキランプが、一度も点いていない。

 伊能黎真は立ち上がり、スタンドを駆け下りる。赤いマシンのドアを引き、アクセルを床まで踏み抜いた。

 赤いスーパーカーが整備エリアから飛び出し、弾丸のようにコースへ刺さる。

 コース上。

 柚葉の速度は落ちている――だが、足りない。

 170。コーナーまで300メートル。

 最後の一度、ブレーキを踏む。

 ペダルはふわりと沈み込み、底まで行っても、何ひとつ返ってこない。

 柚葉は深く息を吸い、視線をイン側の退避スペースへ固定した。タイヤバリアが積まれている場所。

 ぶつかれば車は終わる。でも――死ぬとは限らない。

 ハンドルを切る。

 だがリアが抜けた。車体は大きく横を向き、制御を失ったままガードレールへ滑っていく。

 その先は、崖――

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