第7章

 タイヤが路面を引き裂くような悲鳴を上げ、車体がスピンする。ガードレールが、みるみる迫ってきた。

 次の瞬間――リアがガードレールに叩きつけられ、金属が裂ける音が爆ぜる。

 そのとき、横から赤いスーパーカーが、狙い澄ました角度で突っ込んできた――

 相手が選んだのは、いちばん安全な当たりどころ。後輪のフェンダー付近。エアバッグを作動させず、それでいて衝撃を最大限吸収できるポイントだ。

「ボン――!」

 二台の車はぐっと噛みつくように密着し、タイヤが地面を削って火花を散らす。鼻を刺す焦げた匂いが一気に広がった。

 銀色のマシンは、車体の半分を崖の外へ投げ出したまま、今にも落ちそうに揺れている。

 伊能黎真が車から降りると、数歩で駆け寄り、彼女のドアを引き開けた。シートベルトを外し、運転席から乱暴に引きずり出す。

 二人が安全な場所へ下がった直後、銀色のレーシングカーはさらにずるりと沈み、欠けたガードレールの隙間に引っかかったまま、ぐらり、ぐらりと二度揺れた。

 鈴鹿柚葉は足に力が入らず、伊能黎真を見上げる。

「……助かった」

 伊能黎真は一瞥し、視線を彼女の右手へ落とす。親指と人差し指の付け根に、薄い血筋。さっきのガラス片だ。

 彼はスーツの内ポケットから濃いグレーのハンカチを取り出し、差し出した。

「手」

 鈴鹿柚葉は一瞬きょとんとしてから傷を見下ろし、受け取る。

「こんなの、平気」

「ブレーキが死んでたのに、最後のコーナーまで破綻させなかった。反応も車の扱いも悪くない」

 漆黒の瞳に、わずかな称賛が浮かぶ。

 鈴鹿柚葉は意外そうに彼を見た。

「でも、進入前にシフトを奪いにいってない」

 鈴鹿柚葉は目を細める。

「奪いにいけば、右手がハンドルから離れる。あの速度でそれはリスクが高い。だから壁に当てた」

 伊能黎真は薄い唇で、くっと笑った。

「正解だ」

 遠くから、夏川瀬尾が狂ったように車を飛ばしてきた。降りるなり柚葉の前へ突進し、顔面は真っ青だ。

「柚葉! 大丈夫か? どこか怪我してないか?」

 上下を必死に確かめる声が震え、眼の奥まで動揺で満ちている。

「私は平気」

 鈴鹿柚葉は落ち着かせるように彼の腕を軽く叩いた。

「でも瀬尾兄さん、ブレーキが急に効かなくなった」

 夏川瀬尾は一瞬固まり、次の瞬間、顔色が鉄のように冷える。追いついてきたチームマネージャーへ怒鳴りつけた。

「調べろ! なんでブレーキが逝くんだ! 誰があの車を触った!」

 マネージャーは何度も頷くと踵を返し、スタッフを呼びに走った。車を回収して点検に回すためだ。

 夏川瀬尾は深く息を吸い、伊能黎真へ向き直って手を差し出す。

「伊能様。本日は妹を助けていただき、ありがとうございました。後日、夏川家よりきちんと御礼を」

「気にしなくていい。無事ならそれでいい」

 二人は短く握手を交わす。

「柚葉、戻ろう」

 夏川瀬尾は鈴鹿柚葉の肩を抱き、車の方へ歩き出した。驚きと恐怖が抜けきらない声で続ける。

「君に何かあったら……俺、父さん母さんにどう説明すれば――」

 鈴鹿柚葉は一度だけ振り返る。伊能黎真はすでに迎えの車に乗り込んでいた。

 彼女は視線を戻した。

    ◇

 クラブの休憩エリアに戻る。

 夏川瀬尾は鈴鹿柚葉をソファに座らせると、すぐに熱い湯を入れたカップを持ってきて、その手に押し込んだ。

 どこから引っ張り出したのか毛布まで持ち出し、手際もなく彼女の肩にぐるぐる巻きにする。

「柚葉、寒くないか? 気分は? 医者がすぐ来るからな。大丈夫、大丈夫だ。怖かったよな……」

 鈴鹿柚葉はカップを両手で包み、彼の落ち着かない背中を見て、胸の奥がじんと温かくなる。

「瀬尾兄さん。本当に大丈夫」

 それに、自分はそこまで脆くない。

「よかった……よかった……」

 夏川瀬尾は繰り返し呟き、まだ震えの残る息で隣に座った。

 そこへ夏川音子が早足でやって来て、鈴鹿柚葉の手をぎゅっと掴む。

「お姉ちゃん! ほんとに怖かった……大丈夫? 危なすぎるよ、私、泣きそうで――」

「そう」

 鈴鹿柚葉は掴まれた手を見下ろし、すっと引き抜いた。

 夏川音子の手が、宙で固まる。

 そのとき、チームマネージャーが顔色の悪いまま近づいてきた。言いづらそうに口を結び、視線が泳ぐ。

 夏川瀬尾が顔を上げる。

「わかったのか。どういうことだ」

 マネージャーは逡巡し、夏川音子を一度見てから、スマホを差し出した。

「……出ました。ブレーキの配管に細工されています」

 夏川瀬尾の目が殺気を帯びる。

 だが鈴鹿柚葉は静かだった。スマホを取り出し、車庫のリアルタイム記録をさっと開く。

 改造の際、データ確認用にシャシー下へ仕込んでおいた超小型レコーダー。その映像には、夏川音子が屈み込み、配管を切断する瞬間が鮮明に映っていた。抜け落ちるフレームなど、ひとつもない。

 再生が終わった瞬間、夏川瀬尾の身体が硬直した。

 夏川音子へ向ける眼差しが、衝撃から――完全な失望へ変わる。

「……お前か」

 夏川音子は必死に首を振る。

「違う! 瀬尾兄さん、信じて、ほんとに違うの! 私じゃ――」

 鈴鹿柚葉は熱いカップをテーブルに置き、夏川音子をまっすぐ見た。

「私に死んでほしかったんでしょ」

 夏川音子はさらに泣きじゃくる。

「違う! お姉ちゃん、違う、ほんとに――」

「残念だったね。私は死んでない」

 鈴鹿柚葉は淡々と、相手の胸の底をえぐるように言った。

「おじいちゃんが株を私に渡した。パパとママは私を可愛がる。瀬尾兄さんは私をレースに連れて行く。だから憎い?」

「違うの! そんな……私、ほんとに……」

 パァン!

 乾いた平手の音が響き、夏川音子の顔が横へ弾かれた。泣き声が途切れる。頬がじんじんと熱い。

 信じられない、という顔で頬を押さえ、恨みを滲ませて鈴鹿柚葉を睨む。

「……私を叩いた?」

「叩くでしょ。日にちでも選べって?」

 鈴鹿柚葉は手首を軽く回す。

「私を殺そうとしたんだよ。平手一発で済ませてあげたんだから、むしろ『ありがとう』じゃない?」

「……なんで、あんたが!」

 夏川音子の声は悔しさで震えた。

「私が生きてるから。あと、あなたのしたことなら、数年は入っててもおかしくない」

 夏川音子は唇を震わせ、夏川瀬尾へ縋るように目を向ける。

「瀬尾兄さん……見てるだけ? 私だって妹なのに……!」

「……お前には、がっかりだ」

 夏川瀬尾は首を横に振った。

 変わってくれると、どこかで思っていたのに。

    ◇

 夏川家に戻ると、リビングの空気は鉛みたいに重かった。

 山瀬美玖は鈴鹿柚葉の姿を見るなり駆け寄り、抱きしめて全身を確かめるように撫で回した。

「柚葉ちゃん! 怪我は!? ……怖かった……ママ、心臓が止まるかと思った……!」

 夏川明延は顔を強張らせ、拳を握り、また開いた。

「ママ、平気だよ。ほら、ちゃんといる」

 鈴鹿柚葉は背中をぽんぽんと叩く。

 山瀬美玖は四肢が揃っているのを確認してから、夏川音子へ振り返った。眼差しが一気に冷える。

「どうして、こんなことをしたの」

 十八年育てた娘が、ここまでの悪意を抱いていたなんて。

 夏川音子はまだ否定する。嗚咽混じりに首を振った。

「パパ……私、してない……違う……」

「映像が全部残ってるのに、まだ言うか!」

 夏川明延が机を叩く。

「お前は姉を殺しかけたんだ!」

 夏川音子はびくっと震え、涙が溢れた。

「殺すつもりなんて……ただ、ただ――」

「ただ、なに?」

 山瀬美玖は目を赤くして問い詰める。

「私たちはあなたを十八年育てた。それなのに、実の娘にこんなことをするの? 夏川音子、夏川家はあなたに何かした? 何が足りなかったの?」

 夏川音子は唇を震わせるだけで、言い返せない。

 夏川明延は深く息を吸った。

「夏川家に、お前は置けない。明日出て行け。今後、夏川家とは無関係だ。二度と戻ってくるな」

 夏川音子は目を見開く。

「パパ……追い出すの……?」

「今回、柚葉が無事だった。次は?」

 夏川明延は疲れたように目を閉じた。

「賭けられない。……十八年、夏川家が育てたのは、無駄だったと思うしかない」

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