第8章
夏川音子はふらりと身を揺らし、白目をむいて、力が抜けたようにそのまま床へ崩れ落ちた。
山瀬美玖がぎょっとする。夏川瀬尾が素早く駆け寄って鼻先に手を当て、ふうっと息を吐いた。
「息はある。ショックで気を失っただけだろ」
夏川明延は目を閉じた。
「部屋に運べ。医者も呼んで診せろ」
夏川瀬尾が使用人に指示し、音子は部屋へ運ばれていった。
山瀬美玖は鈴鹿柚葉の手を強く握り、頭を下げるように言った。
「柚葉ちゃん、ごめんなさい……こんなに辛い思いをさせて……」
「お母さんたちのせいじゃないよ。あの子がやったことなんだし、責める必要も謝る必要もない」
山瀬美玖は首を振る。
「いいえ……私たちの育て方が悪かったの。もっと早く気づけていれば、柚葉ちゃんがあんな目に遭うことも……」
「ママ、十八年も本気で可愛がってきたんでしょ。それはあの子の問題。ママたちのせいじゃない」
夏川明延の喉仏が上下し、掠れた声が出た。
「柚葉……父さんは……」
「お父さん」
鈴鹿柚葉はまっすぐ見返す。
「罪悪感なんていらない。私のこと大事にしてくれてるの、ちゃんと分かってるから」
夏川瀬尾はうつむいたまま、叱られた大型犬みたいな顔をしている。
「柚葉、俺が悪い。俺がサーキットに連れて行かなければ、あんなことに……」
「瀬尾兄さん」
鈴鹿柚葉は呼び止めた。
「連れて行ったのは、私が行きたがったからでしょ。瀬尾兄さんは悪くない。悪いのは手を出した人間」
皆の沈んだ空気を見て、柚葉は口元だけ少し上げた。
「それに、私は無事じゃん。追悼式みたいな顔しないでよ」
夏川瀬尾はその一言に詰まり、涙の跡のまま吹き出しかけて、笑うのも違うと気づいたような妙な表情になった。
山瀬美玖もつられて涙を拭う。
「もう……あなたって子は……」
鈴鹿柚葉はティッシュを抜いて手渡した。
「お父さんお母さん、瀬尾兄さん。私、お腹すいた」
「はいはい、すぐ夕飯作るわね」
夏川明延は娘を見つめ、目に痛みと誇りを滲ませた。
「いい子だ……見つけて、連れ戻せて、本当によかった」
夜が更ける。
鈴鹿柚葉はベッドの上でごろごろ寝返りを打ち、腹がぐうっと二度鳴った。
起き上がって階下へ。キッチンで何かつまもうとする。
夏川音子の部屋の前を通りかかったとき、中からすすり泣きが漏れていた。
「お嬢様、泣かないでくださいませ……目が腫れたら、せっかくのお顔が……」
鈴鹿柚葉は足を止める。
ドアの隙間から覗くと、中村さんが音子を抱き寄せていた。髪を撫でるその手首に、やけに古めかしい腕輪が嵌っている。
その紋様は見覚えがあった。渡辺花子のアルバムで見た——鈴鹿家の旧邸で執事が身につけていた印。
ただの家政婦が、なぜ鈴鹿家の古い品を。
「中村さん……私、追い出されるの。もう夏川家の人間じゃなくなる……」
音子は息も絶え絶えに泣きじゃくる。
「大丈夫、大丈夫。中村さんがいるでしょう。ずっとそばにいるから……」
慰め方が、雇い主と使用人の距離を越えている。卑屈なほどの庇い立て、慣れきった手つき。
鈴鹿柚葉は視線を引き、胸の奥に小さな違和感を残しながらも、深追いはせずキッチンへ向かった。牛乳とケーキを確保して、さっさと食べる。
腹が満ちて部屋に戻ると、また脳裏に浮かぶ。中村さんが音子を見る目。あれは家政婦のそれじゃない。
鈴鹿柚葉の瞳がすっと冷える。スーツケースの底から、地味なノートパソコンを引っ張り出した。
起動と同時に、画面には常用OSとは別物のコードが走る。灰地に緑文字。彼女にしか読めない端末。
指がキーボードを叩く。速すぎて指先が霞む。
滝みたいに流れるログ。その数秒後、仁生病院の二十数年前の患者データベースが開いた。
時系列で並ぶシステムログ。
当時、渡辺花子と山瀬美玖が同日に出産している。担当看護師の名簿の中で、ある名前だけが何度も、星印つきで記録されていた。
鈴鹿柚葉は目を細める。
その名前を起点にさらに掘り下げようとした瞬間、画面に警告が弾けた。
【警告! 同一システムに別ユーザーのアクセスを検知】
眉が上がる。
自分と同時に、この病院へ侵入している誰かがいる。
しかも相手の突破ルート——自分よりさらに深い階層からだ。
鈴鹿柚葉は未知のユーザーIDを見据え、一行打ち込む。相手の侵入経路に沿って投げた。
【そっちも、この病院が怪しいって気づいた?】
数秒の沈黙。
【誰だ】
【同じ。あの頃の件を調べてる】
【俺はキング。手を組むか?】
鈴鹿柚葉はIDを見つめたまま返す。
【どう組む】
【俺がデータ。君が人。情報共有】
鈴鹿柚葉は短く考えた。
【いいよ】
相手は暗号通信チャンネルのアドレスを送りつけ、システムから抜けた。
翌日の夕方。
鈴鹿柚葉が夕食を終えたところで、従弟の山瀬織斗から電話が入った。
「従姉、今夜どう? 俺が集めたんだ。身内ばっか」
山瀬美玖は織斗の声を聞くと、笑って背中を押す。
「柚葉ちゃん、行っておいで。少し遊んだほうがいいわ。家にこもってばかりじゃダメよ」
ここ数日ずっと家にいた。美玖は、柚葉が気疲れで参ってしまうのが怖かったのだろう。
鈴鹿柚葉は気が進まなかったが、そう言われた以上、流れで受ける。
「分かった。場所送って」
部屋で着替え、車を出してカラオケの個室へ向かった。
山瀬織斗は若い連中を大勢集めていて、やたら賑やかだった。
「従姉、来た! こっちこっち、座って! 紹介する——」
織斗が満面の笑みで手を振る。
鈴鹿柚葉が腰を下ろした拍子に、テーブルの上のグラスに肘が触れた。
ちゃぷっ。酒が手にかかる。
「先、手洗ってくる。話は戻ってから」
洗面所で手を洗い、廊下を曲がったところで、正面から二人がやって来た。
鈴鹿星乃が新沢逸也の腕に絡み、店員に何か言っている。
鈴鹿柚葉は内心でため息をついた。
鈴鹿の人間とは、妙に縁がある。
無視して個室へ戻ろうとした、そのとき。
鈴鹿星乃が彼女を見つけ、嘲る声を上げた。
「うわ、鈴鹿柚葉じゃん。なんでここにいるの?」
新沢逸也も視線を落とし、露骨な軽蔑を滲ませる。
鈴鹿柚葉は相手にする気もなく歩き出すが、星乃がわざと前へ出て塞いだ。ねっとりした言い方で絡む。
「ここって金持ちが遊ぶ場所なんだけど。あんたん家、スラム街の連中でしょ? 払えるの?」
鈴鹿柚葉は淡々と言った。
「どいて」
「図星で恥ずかしいの?」
鈴鹿星乃は意地悪く笑う。
「鈴鹿家から追い出されたのに、こういう所に紛れ込めるんだ。誰かに取り入った? 男でも捕まえた?」
艶のある顔を見上げながら、嫉妬がちらつく。
新沢逸也が鼻で笑い、星乃の肩を抱く。その目には下卑た色まで浮いていた。
「柚葉、困ってるなら言えばいい。知り合いなんだし、男に——」
「新沢逸也、何のつもりでその口開いてんの?」
鈴鹿柚葉は白目を剥くように目を上げた。
新沢逸也の顔色が沈む。
「……何だと?」
鈴鹿星乃も憤る。
「鈴鹿柚葉! 口の利き方考えなよ!」
「間違ってる?」
鈴鹿柚葉は笑いかけるようで、目は笑っていない。
「前にあんたが、しつこく私を追い回してたときは、私の言い方がキツいなんて気にしてなかったじゃん。私を口説く前に、鈴鹿星乃の許可は取ったの?」
言葉を切り、冷たく重ねる。
「私が昔からあんたを選ばなかったのに、今さら選ぶわけないでしょ」
新沢逸也は怒りで顔を青くし、鈴鹿星乃は奥歯を噛んだ。逸也の視線がどこを向いているかなんて、分からないはずがない。
鈴鹿柚葉は星乃へ目線を滑らせ、口角を少し上げた。
「そうだ。これ拾ってくれて助かった。私が捨てる手間が省けたし」
さらりと吐き捨てる。
「正直、気持ち悪くて。触りたくもなかったから」
