第9章
新沢逸也は、鈴鹿柚葉にそこまで侮辱され、顔色をどす黒く曇らせた。
「何?」
鈴鹿柚葉は鼻で嗤い、「どいて」とだけ言った。
だが鈴鹿星乃がすっと前に出て、新沢逸也の前に立ちはだかる。柚葉を睨み据え、言葉に棘を乗せた。
「調子に乗らないで。鈴鹿家に追い出されたあんたは、今じゃ何者でもないでしょ」
「私がどうしてここに入れたのか、気にならない?」
鈴鹿柚葉は口角をわずかに上げた。
鈴鹿星乃が一瞬、言葉を詰まらせる。
「どうした」
不意に背後から、低く沈んだ声が落ちてきた。
鈴鹿柚葉が目を向けると、夏川雅之がこちらへ歩いてくるところだった。
来た男は眉目が鋭く、纏う空気だけで場を押し潰す。鈴鹿星乃の瞳に一瞬、見惚れに近い色が灯り、すぐに不安が差した。
蘭庭ホテルのときも、柚葉は夏川家の人間に守られていた。いまもまた、こんな男が前に出てくる。
それでも、鈴鹿柚葉が本当に返り咲いたなんて認めたくなくて――鈴鹿星乃はわざと意地の悪い笑みを浮かべた。
「鈴鹿柚葉。これがあんたのパトロンってわけ? だからこんな所に入れたんだ。顔だけはそれなりだけど、趣味は悪いわね。あんたみたいな——」
「黙れ」
夏川雅之がわずかに眉を寄せる。瞳に冷たい光が走った。
その一瞥だけで、鈴鹿星乃の背筋がひやりと冷える。喉の奥で言葉がつっかえ、出てこない。
新沢逸也が不機嫌そうに夏川雅之を値踏みした。
「誰だ、お前」
夏川雅之は柚葉を見た。
「知り合いか」
「別に」
鈴鹿柚葉は肩をすくめる。
「通せんぼしてきただけ」
夏川雅之は横に控えていた支配人へ視線を移した。声は淡々としているのに、逆らえる余地がない。
「この二人が柚葉に絡んでいる。客の安全を損ねた。会員制クラブの規則どおりに処理しろ」
支配人の顔色が変わり、すぐさま合図する。
黒服のボディーガードが二人、左右から一斉に動いた。がしっと新沢逸也と鈴鹿星乃の腕を取ると、文字通りお引き取り願う形で外へ運ぶ。
「何するのよ! 離しなさい!」
鈴鹿星乃が甲高く叫ぶ。
「俺が誰だか分かってんのか!」
新沢逸也も暴れながら怒鳴った。
「新沢家の人間だぞ——!」
ボディーガードは表情ひとつ変えず、二人をそのまま会所の外へ引きずり出した。
夏川雅之は柚葉を上から下まで素早く確認する。
「怪我はないか。嫌なことをされた?」
「されてない」
鈴鹿柚葉は首を横に振り、ふと思い出したように問う。
「兄、どうしてここに?」
「友人の集まりだ」
夏川雅之が尋ね返す。
「君は?」
「山瀬織斗に呼ばれた」
「そうか」
夏川雅之は頷く。
「行ってこい。楽しめ。帰りは車を回させる。あとで送る」
「ありがとう、兄」
鈴鹿柚葉はドアを押して個室へ戻っていった。
夏川雅之は、さきほど柚葉の前を塞いでいた二人の顔を思い出す。スマホを取り出し、秘書へ短く指示を飛ばした。——身元を洗え。
◆
鈴鹿星乃と新沢逸也は、カラオケ店の出入口へ放り出された。
夜風が頬を撫でる。鈴鹿星乃は怒りで肩を震わせた。
「何よ……! あいつ、何様なの? 鈴鹿家に捨てられたくせに、どうして守るやつがいるのよ!」
新沢逸也は、ボディーガードに掴まれて痛めた腕をさすりながら、陰気な顔で呟いた。
「さっきの男……どこかで見た気がする。妙に見覚えがあるんだよな」
「誰でもいいでしょ!」
鈴鹿星乃が歯噛みする。
「鈴鹿柚葉のパトロンに決まってる。じゃなきゃ、あんなふうに庇うわけない!」
新沢逸也は黙ったまま、夏川雅之の纏っていた威圧感を思い返す。普通の金持ちのそれじゃない——胸の奥に、嫌な引っかかりが残る。
鈴鹿星乃はその態度が癇に障った。唇を尖らせ、甘えるように、しかし探るように言う。
「逸也兄ちゃん……まさか、まだあいつのこと——?」
「馬鹿言うな」
新沢逸也は彼女の肩を抱き寄せた。
「好きなのは君だけだ」
鈴鹿星乃は胸に寄りかかりながら、目の奥にくすぶる不満を隠さなかった。
いつか必ず。
鈴鹿柚葉に、地面に膝をつかせて謝らせる——。
◆
個室の中は、相変わらずの大騒ぎだった。
山瀬織斗はマイクを握って歌っていたが、音程などとっくに宇宙へ飛んでいる。
鈴鹿柚葉が戻るなり、彼はマイクをぽいっと放り投げて駆け寄った。
「トイレ行ったきり全然帰ってこないから、抜けたのかと思った」
「二人ほど絡んできて、ちょっとね」
「ちょうどいい。戻ったならサイコロやろうぜ」
「何を?」
鈴鹿柚葉が眉を上げる。
「真実か挑戦か!」
デニムジャケットの女の子が勢いよく手を挙げた。
「つまんねぇ」
山瀬織斗が首を振る。
「普通にダイスでいい。負けたやつ、廊下で三回『俺はバカです』って叫べ」
別の男が吹き出した。
「山瀬織斗、お前が言いたいだけだろ」
「うるせぇ。やるの、やらないの?」
「やる!」
皆が集まり、各自ダイスカップを手に取る。
山瀬織斗がルールを決めた。
「いちばん目が小さいやつが行け」
第一ラウンド、カップを開ける。
鈴鹿柚葉は5が三つ。
デニムの子は4が三つ。
別の男は3が二つ、4が一つ。
そして山瀬織斗は——1が二つ、2が一つ。
どっと笑いが弾けた。
「織斗、引き弱すぎ!」
「ほら、早く行け行け!」
山瀬織斗は顔面が青くなる。
「今のはノーカン! 心の準備ができてなかった!」
「だーめ」
デニムの子が腕を掴む。
「往生際悪い。ほら、行く!」
山瀬織斗は引きずられてドアのところへ。
「おい、撮るなよ——」
言い終える前に、スマホが顔面へ突きつけられた。
「早く。負けたくせに」
山瀬織斗はぐっと息を吸って外へ出る。
廊下から、くぐもった声が三回、響いた。
「俺はバカです——俺はバカです——俺はバカです——」
隣の個室のドアが開き、顔だけ覗いた誰かが悪態をつく。
「夜中にうるせぇな!」
山瀬織斗は首をすくめて一目散に戻り、顔を真っ赤にした。
個室は笑いでひっくり返った。
鈴鹿柚葉はテーブルの酒をひと口含む。
山瀬織斗が寄ってくる。
「何笑ってんだよ」
「織斗が面白いから」
山瀬織斗は言葉に詰まった。
周囲がさらに囃し立てて「次いけ次!」と騒ぐが、彼は断固拒否して部屋の隅へ避難し、フルーツをもそもそ食べ始めた。
(もっとクールなやつだと思ってたのに……ちょっと抜けてる)
そんなふうに遊んで、気づけば夜はとっくに更けていた。
◆
散会後、鈴鹿柚葉がカラオケ店を出ると、黒いセダンが入口に停まっていた。
運転手が降りてドアを開ける。
「お嬢様。若様のご命令で、鈴鹿様と山瀬様をご自宅までお送りいたします」
山瀬織斗が口笛を吹く。
「従兄、気が利くな」
◆
鈴鹿家。
鈴鹿星乃が帰宅すると、渡辺花子はまだ起きて待っていた。
新沢逸也とのことを聞こうとしたのだろうが、娘の顔色を見て眉を寄せる。
「星乃、どうしたの? 誰かに何か言われた?」
「鈴鹿柚葉よ!」
鈴鹿星乃は悔しさで声が震え、今にも泣きそうだった。
「あいつ、何をどうしたのかパトロンみたいなのがいて……私と逸也兄ちゃん、カラオケから追い出されたの……!」
渡辺花子の表情が沈む。
「あの子が、そんなことを……!」
「でしょ? 今は後ろ盾があるから、私たちのことなんて眼中にないのよ……!」
鈴鹿星乃は勢いのまま訴え続けた。
渡辺花子は娘の手の甲をやさしく撫でて落ち着かせる。
「星乃、あんな子のことで怒らないの。追い出された養女が、何をできるっていうの」
「でも、あの澄ました顔がムカつくの」
鈴鹿星乃は奥歯を噛む。
「本当はパパとママの娘でもないくせに、私の立場を奪っておいて……何を偉そうに」
「はいはい。もう休みなさい。明日はドレスのフィッティングでしょう」
渡辺花子は目元に柔らかな笑みを貼りつけ、穏やかに宥めた。
「……うん。ママも早く寝てね」
鈴鹿星乃は自室へ戻ったが、寝返りを打っても眠れない。頭の中に浮かぶのは、憎たらしいほど綺麗な鈴鹿柚葉の顔ばかり。
そのとき、スマホがぶるりと震えた。
画面を開くと、数枚の写真が送られてきている。
鈴鹿柚葉が、男を変え、場所を変え、薄暗い光の中で寄り添っている——角度はいやらしく、いかにも親密に見えるものばかりだった。
鈴鹿星乃の瞳が、すっと明るくなる。指が走った。
【あなた、誰?】
【共通の敵がいる。写真は好きに使って。遠慮はいらない】
鈴鹿星乃は唇を噛む。
【何が目的?】
【鈴鹿柚葉に、生き地獄を味わわせたい。あいつが苦しめば、それでいい】
鈴鹿星乃は思わず笑みを漏らした。
【じゃあ、協力関係ね】
相手が誰かは分からない。
けれど——これは、間違いなく自分にとって大きな追い風だった。
