第1章
ノラ視点
「契約を解きましょう」
退院して最初の日、血判を押した『契約解除書』をケィルの前へすっと差し出した。
ケィルは銀の刃を拭っていた――幾多の敵を斬ってきた、あの武器だ。手元がぴたりと止まり、彼は顔を上げる。金色の瞳に、戸惑いが走った。
「……何だと?」
「契約解除よ」私は淡々と繰り返す。
「セラフィーンが明後日戻ってくるんでしょう?」
彼の視線が、羊皮紙に残る私の血の印へ落ちる。喉仏がわずかに上下し、彼は銀刃を掴むと掌をすっと切った。血が契約書へ滴り、紙は一瞬で吸い込み、濃い紅の符文へと変わる。
セラフィーン。彼の、高嶺の花。
七年前、彼を救って窮地から逃がすため、敵に金鷲族が誇る双翼を潰された。医師は言った。精神が脆く、伴侶の印を見れば発作を起こす、と。
だから彼女が療養院から戻るたび、私は消える。契約を解く。印を消す。
――二十一回目。
ケィルは暖炉へ歩み寄り、契約書を放り込んだ。炎が一瞬でそれを呑み込む。
胸の奥が、きりりと痛む。
伴侶の契約が断たれる感覚――魂を繋いでいた細い糸を、刃物で生々しく断ち切られるみたいに。
私は目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
「今日はずいぶん素直だな」ケィルは灰になっていく紙を見て、満足そうに頷く。
「やっと分かったか」
ふと、彼が動きを止めた。次の瞬間、私の左手首を掴む。
新しい傷痕が、くねくねと這っていた。死んだ蛇みたいに歪んだ線。まだ滲む血と、不自然に赤い縁。
「これは……」ケィルが眉を寄せる。
「伴侶の印」私は言う。
「セラフィーンのために、今回は先に消したの」
「正気か!」彼が低く怒鳴った。
「印の抹消は、契約解除から三日待つのが決まりだ! そんなことをしたら――」
「どうなるの?」私は静かに見返す。
「痛む? 命に関わる?」
そっと手を引き抜く。
「全部知ってる。でも、セラフィーンはこの前、印を見ただけで気を失ったでしょう?」
ケィルの顔色が変わった。
十五回目の解除のとき。セラフィーンが私の手首の印をちらりと見て、その場で崩れ落ちた。ケィルは激昂し、私がわざと刺激したと言い張った。そして私を火の檻へ投げ込んだ――魔法の炎で編まれた檻。殺しはしないが、皮膚の一寸一寸が裂かれるように痛む。
私はそこで丸一日閉じ込められた。全身が熱で真っ赤に染まり、高熱で声も出なかった。
通りかかった一族は、誰一人として私を見ない。水一口だってくれない。
嫌われているからだ。私は人間で、獣の姿も力もない。領主の伴侶になる資格がない。
「好きに痛い目を見るがいい」彼は鼻で笑う。
「俺は止めん」
私は背を向けて荷造りを始めた。五年の間に、この家を出入りしたのは二十回。毎回これが最後だと思って、毎回どこかで期待してしまった。
でも今は、ただ逃げたい。
「ノラ」ケィルが苛立った声で呼ぶ。
「聞いているのか?」
「うん」私は服を畳み続け、顔すら上げない。
「三週間後にセラフィーンが療養院へ戻る。そのときまた契約を結ぶ」彼はドア枠にもたれ、腕を組む。
「それまでどこにいる?」
「ライラのところ」
「お前のエルフの友人か?」彼の目がすぐに鋭くなる。
「いつまで?」
「三週間」スーツケースのファスナーを閉め、私は彼を見た。
「あなたはセラフィーンに付いているんでしょう?」
彼は目を細め、首筋の筋肉が張り詰めた。
「大人しくしろ」冷えた声で釘を刺す。
「昔みたいに騒ぐな」
私は彼を見つめる。
五年前の氏族祭典。彼は私を抱き寄せて高台に立ち、皆の前で宣言した――
「こいつは俺の伴侶だ」。そのときの瞳には、狂おしいほどの独占欲が燃えていて、私は自分が必要とされているのだと錯覚した。
今、彼の目にあるのは苛立ちだけ。
「しないよ」私は淡々と言った。
「邪魔にはならない」
ケィルは数秒私を見てから、わずかに表情を緩める。
「ならいい。セラフィーンが戻ったら埋め合わせを――お前、ずっと星月舞踏会に行きたがっていただろ。礼服を用意させる――」
「いらない」
ケィルの眉が跳ね上がり、眼差しが一瞬で刃になる。
「どういう意味だ?」
「言葉どおり」胸の中が穴みたいに空っぽで、私はただ見返した。
「埋め合わせなんて要らない」
「ノラ」彼の声がぐっと低くなる。顎が硬く引き締まった。
「また拗ねて何をするつもりだ?」
「してない」
「ならその態度は何だ」彼が一歩詰める。圧が、肌にぶつかった。
「あの日の火事のことを、まだ根に持っているのか?」
私は彼を見つめ、喉がきゅっと縮む。
流産してから、彼は一度も私に痛かったかと聞かなかった。
ただ、どうしてセラフィーンを選ばなければならないのかを何度も説明した。理由さえ正しければ、子どもを失うことも当然だと言うみたいに。
「それに、あの子どものことだが――」彼は言葉を切り、氷みたいな声になった。
「わざと孕んだんだろ。子で俺を縛るつもりか? ノラ、そんな小細工は最初から見えている」
心臓が、握り潰された。
「……たぶん、あなたの言うとおり」私はかすかに言い、スーツケースの取っ手を掴んだ。
「身の程知らずだった」
彼が反応する前に、私はそのまま出ていった。
車がナイトシェイド領を抜ける。
バックミラーの中で、あの建物群が遠ざかっていく――黒い尖塔が黄昏の空を突き刺し、入口には石彫の黒豹がうずくまり、金の獣眼が冷たく去る車を見送っていた。
かつて、そこが帰る場所だと思っていた。
今なら分かる。ただの豪奢な檻だった。五年も私を閉じ込めた檻。
胸の空洞が、じわじわと広がっていく。少しずつ、内側を削り取られるみたいに。
でも、もう痛くない。
痛みに浸かりすぎて、とっくに麻痺してしまった。
私は通信用の水晶を取り出し、わずかな魔力を流し込む。水晶がほのかに灯った。
三拍ほどで、繋がる。
向こうから聞こえたのは、低く落ち着いた女の声。古く、揺るがない力を帯びている。
私は目を閉じ、震える声で呼んだ。
「お母さん……」
沈黙。
水晶のかすかな唸りだけが続く。
「私だよ。ごめんなさい」五年前の、失望した顔がよぎる。目の奥が熱くなった。
「……帰りたい。家に」
