第2章
ノラの視点
「おめでとう。やっと自由になれたじゃない!」
ライラは月光酒の入ったグラスを高く掲げた。水晶の杯の中で、銀色の液体がゆらりと揺れる。
私たちは『星隕』酒場のテラス席にいた。ここはライラがわざわざ選んだ場所だ。私の「契約解除」を祝うんだと言って。
「悪くない」差し出されたグラスを受け取る。ひんやりした感触が、頭を少しだけ冴えさせた。
「少なくとも、今夜はぐっすり眠れる」
ライラは私をじろじろ眺めたかと思うと、急に笑った。
「ほんっと、やっと目が覚めたって顔だね。ほら、新しい人生に乾杯」
グラスが触れ合い、ちいさく澄んだ音が鳴る。喉を落ちる月光酒は、ほのかな苦みを残した。まるで、この五年みたいに。
「そうだ」ライラはグラスを置いた。
「明日、うちの族で採れたばかりの星露草が入るの。傷痕を薄くする薬草ね。あなたの分、取っておいた」
視線が私の手首へ落ちる。まだ血を滲ませたばかりの、新しい傷。
礼を言おうとした、そのときだった。階下からどっと騒がしい声が湧き上がる。
「ケィル様、いらっしゃいませ。二階の個室はすでにご用意しております」
その声で、全身が凍りついた。
顔を上げる——ケィルが、セラフィーンの肩を支えながら階段を上がってくる。
「ここ、静かですね」セラフィーンが囁く。
「ああ、気に入るよ」ケィルは優しい声で答えた。
「メニューに、君の好きな蜜飴もある」
彼がふと顔を上げ、テラスを見回し——私を見つけた。
一瞬で表情が冷えた。
「ノラ」
ケィルはセラフィーンから手を離し、こちらへ大股で歩いてくる。金色の瞳に、露骨な怒りが灯った。
「また俺たちをつけてきたのか?」
周りの客が、いっせいにこちらへ顔を向ける。
私は静かに視線を受け止めた。
「ここは公共の酒場よ、ケィル」
「とぼけるな!」ケィルは私の腕を乱暴に掴む。
「俺が気づかないとでも?」
ライラが即座に立ち上がり、力任せに彼を押した。
「何してるの! 放しなさい!」
「黙れ、エルフ」ケィルは冷たく一瞥し、それから私を睨みつける。
「血月酒場の時も、今度はここだ——ノラ、いつまで騒ぐつもりだ?」
歪んだ彼の顔を見た瞬間、脳裏にひとつの光景が差し込んだ。
十三回目の契約解除のあと、誰かが教えてくれた。ケィルはよくセラフィーンを血月酒場に連れていく、と。
堪えきれず、私は追いかけた。半分だけ開いた扉の向こう、彼は彼女を宥めるように囁いていた。
「泣くな。君はいつだって一番綺麗だ。翼が飛べなくても構わない。俺がずっと傍にいる」
そして、彼女の額に口づけを落とした。
私は扉を押し開け、問いただそうとして——頬を叩かれ、床に転がった。
「お前が何様だ。俺に口を出す資格があるとでも?」ケィルは衛兵へ冷たく命じた。
「刑架に連れていけ。目を覚まさせろ」
魔法の刑架。苦痛に応じて勝手に締まる鎖。もがけばもがくほど喉と胸を締めつけ、息ができなくなる。
七日間。
食べ物も、水もない。ただ終わりのない痛みと恐怖だけ。
七日目、解放された私は立つことすらできなかった。ケィルは扉口に立ったまま、私を見ようともしない。
「次に勝手に姿を見せたら、七日じゃ済まない」
——その記憶を押し戻し、私は今のケィルを見る。胸いっぱいに息を吸って、言った。
「ケィル。私はつけてない」
「なら、なぜここにいる?」信じる気配すらない。
「ライラに呼ばれたから」私はカウンターを指した。
「セロンが証人よ。私たち、一時間前からいた」
酒場の主人セロンが慌てて頷く。
「ええ、確かにお二人は——」
「いい」ケィルが手を離し、眉間に深い皺を寄せた。
そこへセラフィーンが近づき、そっと彼の袖を引く。
「ケィル……もういいです。向こうに座りましょう?」
けれど彼女の視線が、私たちの卓に置かれた月光酒の瓶に落ちた。ぱっと瞳が輝く。
「このお酒、とても特別そう……」
セラフィーンはケィルへ向き直り、声をいっそう柔らかくした。
「少しだけ、飲んでみてもいいですか?」
セロンが困ったように私を見る。
「申し訳ありません。本日は最後の一本でして、こちらのお嬢様がご予約を——」
セラフィーンは小さく息をつくように言った。
「ケィル、どうしても試してみたいんです……お医者さまも、少しくらいのお酒は気分転換になるって。せっかく出会えたのに……」
ケィルはセロンではなく、私を見た。
「ノラ、セラフィーンに譲れ」
一拍置いて、付け足す。
「彼女は療養が必要だ。お前は——」私を値踏みするように視線が滑り、「どうせ何を飲んでも同じだろ」
要するに、守られるべきはセラフィーンで、私は何でもない。
爪が掌に食い込む。
ライラは怒りで肩を震わせ、今にも飛びかかりそうだった。
「どうしてよ! ノラが先に——」
「いい」私はライラの手を押さえ、セロンへ頷いた。
「会計して」
セロンは露骨にほっとした顔になる。
「ノラ……!」ライラが信じられないという目で私を見る。
「平気」私は立ち上がった。
月光酒の瓶を一度だけ見た。飲めば、痛みを一時だけ忘れられるという。けれど——それは最初から、私のものじゃない。
私はライラの腕に自分の腕を絡め、踵を返して階段へ向かう。
「ノラ」背後で、ケィルの声がした。
止まらない。段を下り、夜の闇へ溶けていく。
背中のほうで、セラフィーンの甘い笑い声が弾んだ。
「ケィル、早く。飲んでみたい……」
足音が、遠ざかる。
ライラが歯を食いしばる。
「戻って殴ってやりたい。あのクズ——」
「やめときな」私は小さく言った。
「価値がない」
街角まで来たところで立ち止まる。冷たい月光が道を白く塗り、私は空を見上げた。
「本当に、つらくないの?」ライラの目には痛ましさが溢れていた。
私は彼女を見て、口元だけで笑う。
「ライラ。人って、何回絶望したら……完全に諦められると思う?」
ライラが言葉を失う。
「二十一回」私は言った。
「私は二十一回かかった。だから、もう自分のために生きる」
私たちの影は、夜に溶けて消える。
ガラス窓越しに、ケィルはテラス席に座っていた。手元には月光酒の瓶。耳元ではセラフィーンが甘く囁いているのに、彼は一言も聞いていない。
彼の視線は、私たちが去った方向に縫い付いたまま。眉間の皺が深くなる。
いつもなら、ノラは泣いて、喚いて、取り乱した。けれど今回は違う。まるで別人みたいに、静かだった。
その静けさが、理由もなく彼を苛立たせた。
