第3章
契約を解いた途端、身体の芯からふっと軽くなった。
領地の税収を気にする必要もない。氏族同士の揉め事を仲裁する必要もない。面倒で複雑な防衛術式の保守も、もう私の仕事じゃない。彼の伴侶でもないのに、どうして彼の領地の心配までしなきゃいけないの?
それからの日々は、まるで生まれ変わったみたいだった。自然に目が覚めるまで眠って、精霊区で魔法織りを習い、ライラと星明かりの市を深夜まで冷やかす。緊急召集もない。机に山積みの書類もない。ケィルの氷みたいに冷たい命令もない。
これが、生きるってことだ。
夕暮れのある日、ライラがやけに浮かれて私の腕を引っ張った。
「今夜、野外音楽祭があるの!」目をきらきらさせて言う。
「大陸中の楽師が集まるんだって——行こ、朝まで狂おう!」
草原は人で埋め尽くされ、魔法花火が夜空を裂いて弾けた。腹の底まで響く太鼓のリズムが、大地そのものを震わせる。私は芝の上に腰を下ろし、遠くで熱狂して踊り狂う群衆を眺めながら、忘れていた衝動を肌で思い出していた。
「ほら、自由に乾杯!」ライラが淡く光る酒杯を差し出してくる。
受け取って、喉の奥へ一気に流し込む。強烈に辛くて、喉が燃えるみたいなのに——胸の奥で凍っていた何かが、じわりと溶け始めた。
そのとき、腰の伝訊石が突然、じりっと熱を持った。
ケィルだ。
石を睨み、数秒だけ迷ってから魔力を流し込む。
「領地の防護術式が止まっているのはなぜだ」
刃物みたいに冷たい声だった。
「ガレスが言ってた。お前が全部の権限を引き上げたってな。防衛系統はお前が見ていたはずだ。それが急に止まった——どれだけ危険かわかってるのか?」
眉が寄る。
「もう契約は解いたでしょ、ケィル」
「契約解除は放り投げていい免罪符じゃない!」声が跳ね上がる。
「術式も結界も、適当に誰かに渡せば回ると思ってるのか。ノラ、お前はいったい何がしたい?」
遠くの音楽が伝訊石越しにも漏れたのだろう、彼が息を呑む気配がした。
「外にいるのか?」
「うん。郊外の音楽祭」
「ふざけんな——!」ケィルが怒鳴った。
「遊びに行って領地の安全は投げ捨てか? ノラ、頭おかしいのか。休みたいだけだと思ってたのに、何が音楽祭だよ!」
夜空で炸裂する花火を見上げて、思わず笑いそうになった。
「ケィル。私はただ、自分の生活がしたいだけ」
「自分の生活?」嘲るような声。
「じゃあ領地はどうする。術式、結界、巡回路——それとも、そのやり方で俺を脅してるのか?」
「この五年、私が休んだことある?」目を閉じる。
伝訊石の向こうが、しんと黙った。
「子どもを失って、病床で動けなかったときでさえ」続ける声は、自分でも驚くほど静かだった。
「私は領地の危機処理をしてた。だから責任だとか言わないで。私はあなたの奴隷じゃない」
沈黙が長く伸びる。
「負担が大きいなら調整できる」彼の声が不意に柔らかくなる。
「ガレスにももっと持たせる。……お前が辛かったのは、わかってる」
私は答えなかった。
「ノラ」ケィルが続ける。
「セラフィーンが療養院に戻ったら、改めて契約を結び直そう。今度はもう、あんなに無理はさせない。来週の土曜は誕生日だろ。流星の滝に連れていく。ずっと行きたがってたじゃないか。二人きりで」
心臓を、誰かの手にぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
来週の土曜——それは、私が出ていく日だ。
五年間、何度も何度も言った。流星の滝へ行きたい、と。
あそこは……私たちが初めて出会った場所。彼は覚えていないけれど。
一年目はセラフィーンの養生に付き添うと言われ、二年目は領地の危機、三年目はそもそも話を聞いてすらいなかった。
それが今になって、私が離れるその日に思い出すなんて。
「二人で、ちゃんと——」
「ケィル!」伝訊石の向こうから、甘く媚びた声が割り込んだ。
「早く降りてきてよぉ。いっしょに泳ご?」
水音。わざとらしく弾んだ笑い声。
「お水つめたぁい……ねえ、あなたの身体、すっごく熱い……」
ケィルの言葉がぷつりと途切れた。
草地に座ったまま、周囲は狂ったような音楽と歓声に満ちているのに、私の耳には何も入ってこない。
「ノラ、俺は……」ケィルの声が気まずく揺れる。
「ちょっと用が——また今度——」
「お嬢さん、一人?」
低く太い男の声が、すぐ隣で落ちた。顔を上げると、屈強な熊族の男がにやりと笑っている。
「踊るだけじゃ物足りないだろ。今夜、俺のテントで続きをしないか?」
「誰と話してる?!」伝訊石の中でケィルが爆発した。
「ノラ、そいつは誰だ!」
「ケィル、あなたには関係ない」私は言葉で切り落とす。
「それに、あなたの『埋め合わせ』なんて要らない」
「待て、お前——!」
私は躊躇なく接続を断ち、熊族の男には視線だけで断って追い払った。
ライラが戻ってきて、私の顔色を見るなり鼻で笑った。
「また、あのクソ野郎?」
「うん」伝訊石を鞄に放り込む。
「でも、もう片づいた」
通りかかった給仕に手を上げる。
「もう一杯。いちばん強いのを」
――
それから数日、私はケィルの呼び出しを一切無視した。
ある日、ライラが楽しそうに言いふらしてきた。
「あなたがいなくなったせいで、ナイトシェイド領が今めちゃくちゃらしいよ」
「防護術式は何度も途切れて、野獣の群れに突破されかけたって。で、セラフィーンはもっとひどい。おとといケィルが防御魔法を展開してたのに、いきなり抱きついて——詠唱ぶった切ったらしくてさ。反動でケィル、その場で吐血したって」
私は視線を落として、茶をひと口。心は驚くほど凪いでいた。
ライラがさらに身を乗り出し、声をひそめる。
「あとね、ケィルがあなたのこと、あちこちで探ってる」
「何を?」
「最近、どの男とつるんでるか、だって」ライラが眉をつり上げる。
「『ノラに手ぇ出したクズを見つけろ。俺が直々に刻む』って、血眼で命令してるらしいよ」
