第4章
ノラ視点
「今回は本気で嫉妬して正気なくしたっぽいね」ライラが目配せしてくる
胸の内は、驚くほど凪いでいた。
嫉妬? 彼がそんなものをするはずがない。彼が慣れているのは、私がいつだって尻尾を振って後ろをついて回ること。従順で、言うことを聞く私。そこへ別の男が近づくかもしれないとなった途端、みっともない独占欲が噴き出しただけだ――愛しているからじゃない。自分の「持ち物」に他人の手が触れるのが許せない、それだけ。
そんな欲は、愛とは無関係だ。
それから数日、ケィルはやたらと連絡を寄こしてきた。
毎朝、伝訊石がきっちり熱を帯びる。声色は、最初の爆発的な怒りから、探るような調子へ変わっていた。
「ノラ、最近……どうだ? ちゃんと飯は食ってるか?」
少し間を置いて、わざとらしく何でもないふうを装う。
「この数日、何してた。……誰かに会いに、外へ出たりしてないよな?」
午後になると、衛兵が贈り物を運んでくる。月光石のネックレス、星紋のマント――どれも、昔私が何気なく口にした品ばかり。
探りとご機嫌取りが増えていく。あの熊族の男と私に、本当に続きができたのではないか。彼はそれを怯えるみたいに恐れている。
「このクズ、いったい何がしたいの?」ライラは五つ目の箱を睨みつけ、眉をひそめた
「さあ」私は手も付けずに箱へ戻す。
「自分がまだ私を操れるか、確かめたいだけかも」
七日目、魔法便箋が届き始めた。
『ノラ、ガレスから聞いた。法陣図は全部引き継いだ。丁寧に描いてくれてありがとう』
『今日、エルフの市の近くを通った。前から行きたいって言ってただろ。……一緒に、見に行かないか』
『ちゃんと食べろ。夜更かしするな』
一通も返さなかった。便箋が勝手に燃え尽きるのを眺めるだけ。未読の魔法印は、ひとつ、またひとつと溜まっていく。
土曜の午後五時。
最後の荷物をまとめていた。転送水晶、身分証明書、最低限の必需品。ほかはもう、どうでもいい。
呼び鈴が鳴った。
扉を開けると、ケィルの副官ガレスと、黒豹族の衛兵が二人。
「何か?」
「ナイトシェイド夫人」ガレスが恭しく頭を下げる。
「領主より、お迎えに上がれと。今夜七時半、流星瀑布でございます」
「行くなんて、約束してない」
「領主は……」ガレスは言いにくそうに口を結び、背後の衛兵に視線を投げた。
「奥様がご不快であれば、我々が――お連れするように、と」
二人の衛兵が同時に背筋を正す。
時計を一瞥し、少し考えて、マントを取った。
「行くわ」
どうせ明日には出る。茶番にけじめをつけるだけ。最後の一回。
夜七時。流星瀑布の展望台。
魔法馬車が入口で止まり、ガレスが扉を開けてくれた。
「夫人、領主は少しのちほど参ります」
私は馬車を降り、彼から送られてきた魔法の信標を手に握る。滝の周りには観光客が多い。ほとんどが、寄り添う恋人同士だった。
展望台に立つ。左右は甘く身を寄せ合うカップルばかり。
七時十五分。ケィルは現れない。
私は魔法通信を一通送った。――着いた。
既読はついた。返事はない。
七時半。流星瀑布の流星雨が、約束どおり始まる。
伝訊石が震え、彼の声が落ちてきた。
「ノラ、すまない。セラフィーンが急に取り乱して……精神を落ち着かせるために俺がついてないといけない。先に見ててくれ、片づいたらすぐ行く」
伝訊石を切り、待つのをやめた。振り返って滝を見上げる。
展望台に立っているのは、私だけ。夜の帳を裂くように流星が走る。
ぱぁん、と魔法花火が空で弾けた。
私は目を閉じた。
七年前も、同じ場所だった。
あの頃の私は、家を抜け出したばかりの小娘で、外の世界の何もかもが珍しかった。あの夜も、ただの観星になるはずだったのに、暗影獣の襲撃に遭った。
魔獣は狂暴化し、鋭い爪が空気を裂く。観光客が悲鳴を上げて散り散りに逃げた。
私は岩陰に身を縮め、唸り声が近づくのを聞きながら、もう助からないと覚悟した。
そのとき、黒豹が私の前へ出た。
爪が閃き、肩が裂ける。黒い毛並みに血が滲んで広がった。
彼は人の姿に戻り、振り返った。金の瞳に、何か熱いものが燃えていて――それだけで心臓が勝手に跳ね上がった。
「怖がるな」
そう言った。
あとで知った。彼の名はケィルだと。
私は、私のために傷を負った男に恋をした。七年間、何度もこの滝へ来たいと思ったのは、あの瞬間に戻りたかったからだ――見ず知らずの私のために、彼が躊躇いなく傷を負った、あの一瞬に。
けれど彼は、覚えていない。
彼にとっては無数の巡回のうちの一度にすぎず、私はたまたまそこにいた人間の少女。
記憶に残す価値なんて、ない。
流星雨が最も絢爛になる。無数の光点が夜空を走り、滝の上で弾けて、眩い欠片を降らせる。
目を開けると、頬を温かいものが伝っていた。そっと指で拭う。
終わったのだ。魔獣から私を庇ったケィルなんて、最初からいなかった。いたとしても、あの一瞬だけ。
夜九時。流星雨は幕を下ろす。
観光客が帰り始め、恋人たちは腕を絡めたまま景色の感想を言い合っている。私は展望台を降りた。夜風が冷たく、顔を切る刃のようだった。
伝訊石が震える。見覚えのない魔法印。
映像が流れた。
湯気の立つ温泉の湯船。セラフィーンが縁にもたれ、肩から鎖骨にかけて新しい口づけの痕が散っている。赤く、紫に滲み、やけに目に刺さる。彼女は甘ったるい笑みをカメラに向け、わざと身をひねって痕をさらに見せつけた。
画面の端に男の胸元がちらりと映る――あの傷を、私は見間違えない。ケィルが三年前、辺境の戦で負った傷痕だ。
添えられた文面。
『今夜、すっごく気持ちよかった♡ 誰かがそばにいてくれるって最高~ 譲ってくれてありがとね~』
窓の外の夜景に覚えがあった。療養院ではない。城外にある、彼の私設温泉。
かつて私も、あそこで狂った夜を過ごしたことがある。
私はその映像を見つめ、ふっと笑った。次の瞬間、その場で転送陣を組み始める。
魔法陣が形を成した途端、伝訊石が狂ったように震えた。ケィルだ。
繋ぐ。
「ノラ! セラフィーンは落ち着いた。今からそっちへ――」
「ケィル」私は遮った。
「七年前、滝のそばで魔獣に襲われたの、覚えてる?」
彼が息を呑む気配。
「……何だ、それ」
「あなたが助けてくれた」私は小さく言う。
「ここで。あの日の流星雨は、今日みたいに綺麗だった」
伝訊石の向こうが、長い沈黙に沈んだ。
「悪い。俺……あまり覚えてない」
「知ってる」私は言った。
「私たちが本当に出会った日も、あなたは覚えてないものね」
「ノラ――」
私は通信を切り、伝訊石を握り潰した。そして振り返りもせず、転送陣の光の中へ歩き出した。
