第1章 命懸けの冒険!
11:55。
壁の掛け時計がカチ、カチ、と秒針を刻む。まるで命を急き立てる太鼓の音みたいに。
「早くしな! 今出さなきゃ間に合わないよ! 締切は0時! グズグズしてたらシステムが申請窓口を閉じる!」
向かいの席にいる図書館司書のミラー夫人が、意地悪な視線で阿部奈々とモニカをえぐるように睨みつけていた。干からびた指はすでに、館内の電源スイッチの上に乗っている。
阿部奈々はモニカの背中の後ろに立ち、手のひらが冷や汗でぐっしょりだった。
阿部奈々は十八歳。高校を卒業したばかり。
鳥ですら止まりたがらないような、この寂れた町じゃ、卒業は失業と同じ意味だ。
モニカは阿部奈々の親友で、いつだってこうだ。度胸があって、無茶が好きで、賭けが好きで、そして必ず奈々を巻き込む。
「モニカ、やめようよ」奈々は声を落とした。喉が震える。
「まともな求人がさ、公共掲示ネットの一番下にある文字化けリンクに隠れてるなんて……」
「黙って、奈々!」モニカは振り返りもしない。
「一生、ジェックのガソリンスタンドでガソリンの臭い嗅いで生きる? 最後はあんたのアル中の親父みたいに、トレーラーパークで腐って終わる?」
ページがようやく、重たい息を吐くみたいに表示された。
画面に躍ったのは、血みたいに赤い文字。
【郊外私立・重度精神病院 短期付き添いプロジェクト】
「三か月! 住み込み! 飯つき! 報酬はまるっと500万!」モニカの声が興奮で甲高くなる。
「この金があれば、市街地でアパート借りて、中古車買って、こんなクソみたいな町から完全に出ていける!」
500万。
この町じゃ、命が二つ買える額だ。
このボロい町は、東の伐採場が二年前に潰れた。残ったのはハイウェイ沿いの傾きかけたモーテルと、安いジャンクフードを売るコンビニ、時給が泣けるほど低いファストフード店くらい。
大学に行けなかった若者は、粗悪なビールで街角に座り続けるか、レジの裏で青春を擦り潰す。
奈々もモニカも、家は裕福じゃない。
奈々は雨漏りするトレーラーの集まったキャンプで暮らし、毎月の家賃に追われている。
モニカも似たようなものだ。家には酒に溺れる義父がいる。
ここを出ること。それが二人の執念だった。
でも――精神病院。
「忘れたの?」奈々は耐えきれず言った。
「町の人たち、あそこをなんて言ってる? ブラックパインズの一番奥に建ってて、配送トラックだって近寄りたがらないって……」
「先月、コンビニで働いてた大男のトムが警備員になったけど、二週間もしないで辞めた。こないだ道で見たら、痩せこけて、目がうつろで、言葉もまともに――」
「トムは元からビビりでしょ」
モニカは鼻で笑った。
「狂った患者に脅されて、漏らしただけじゃない?」
そう言いながら、モニカはキーボードを叩き始める。奈々の個人情報を入力していった。
「奈々、いい? 高給には高リスク。世界はそう回ってんの」
「隔離された環境で住み込み、長期の守秘義務契約、ハイリスク患者の対応――地元の連中が尻込みする分、あたしたちのチャンスってわけ!」
「見てよ、今のあたしたち。救済会のお下がり着て、ポケットの小銭足してもハンバーガーひとつ買えない」
「ここに残ったら、生活に少しずつ殺される。腐るくらいなら、賭けろ!」
奈々は喉の奥が詰まったように息ができなかった。
モニカが正しいのは分かっている。貧乏の恐怖は、曖昧な怪談よりよほど息を止める。
「ほら、写真!」
モニカは迷わせない。奈々を引っ張り、蜘蛛の巣みたいに画面が割れた古いスマホを取り出して、インカメラを起動した。
「え、これで証明写真?」奈々は目を丸くする。
「図書室のポンコツパジャマ、カメラついてないの。いいから笑って!」
カシャ。
フラッシュが弾け、青白くこわばった二人の顔を照らした。
モニカは即座に写真を転送し、乱暴にトリミングして、申請システムの添付に放り込む。
時刻は11:58。
ミラー夫人が椅子から立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「あと二分だよ、娘たち」
画面には最終段階――数十ページに及ぶ免責事項と守秘義務契約。
ぎっしり詰まった黒い文字の中に、奈々は幾つかの言葉を拾ってしまった。
「不慮の事故」「精神崩壊」「追訴権の放棄」「生涯沈黙」。
「待って、モニカ。これ、変だよ。ちゃんと読まないと――」
心臓が暴れた。恐怖で、奈々は本体の電源ボタンに手を伸ばしかける。
雇用契約じゃない。まるで、命の誓約書だ。
「時間ない!」
モニカが奈々の手を叩き落とし、スクロールバーを一気に最下段へ。
条項を一文字も見ず、「私はすべての守秘契約および免責事項を読み、同意します」のチェックボックスをクリックし、エンターキーを強く叩いた。
画面中央に緑の丸が現れ、ゆっくり回転する。
11:59。
ミラー夫人が背後まで来て、手を伸ばし、LANケーブルを抜こうとした。
「チン――」
ページが切り替わり、中央に赤い文字。
【申請資料は正常に送信されました。連絡を保持し、採用通知をお待ちください。】
「よっしゃ!」
モニカが椅子から跳ね上がり、拳を振った。
0時の鐘が鳴る。
二人は机の上のバッグを掴み、怯えた野良猫みたいに頭を下げて図書室を飛び出した。
背後でガラス扉が乱暴に施錠され、「カチャ」という鈍い音がした。
真夜中のハイウェイは、街灯の半分が壊れている。残った灯りもチカチカと不安定に明滅していた。
「やったね、奈々!」モニカは足取りが軽い。背中まで昂ぶりが滲む。
振り返って後ろ歩きになり、両手で空中に夢を描く。
「通知さえ来たら終わり! ここから出られる! 500万! もう車の色まで決めてるんだから!」
奈々は必死に口角を上げたが、笑えなかった。
高給には高リスク。
街灯の下で、モニカは大きすぎる古着のジャケットをきつく締め、電話のジェスチャーをしてみせる。
「いい? 着信音最大。五分おきにメール確認。来てるか見て」
