第2章 脱出切符

「……分かった」阿部奈々は、かじかんだ手をポケットへ突っ込んだ。

「そんな顔すんなって、奈々。500万手に入れたら西海岸行こう。ロサンゼルス。太陽とビーチがあるとこなら、どこだっていい」

薄い街灯の色の中で、モニカの目だけが異様に明るい。

ほんの少しでも“先”が見えれば、日々をハイウェイ映画みたいに走り切れる子だ。

交差点で別れた。

モニカは両手をポケットに突っ込み、石を蹴り、鼻歌まじりに軽い足取りで町の北へ消えていく。

阿部奈々の手のひらはまだ汗ばんでいた。足元から背中へ、冷えがぞわりと這い上がる。

これは仕事じゃない。命を賭ける賭博みたいな冒険だ。

モニカの家庭も、奈々に負けず劣らず酷い。

母親は早くに亡くなり、義父は「オールドセーラー・パブ」に入り浸り。安いウイスキーさえあれば生きていけるみたいな男で、何か月もモニカに声をかけないことすらある。

悲劇だ。なのに奈々は、抑えきれないほどモニカが羨ましかった。

少なくともモニカは自由だ。誰にも口出しされない。生活の責任を丸ごと背負わされない。

金はなくても、雑草みたいに肩の力が抜けていて、泥に踏まれても跳ね返る。

奈々は違う。

奈々は踵を返し、町の南にあるトレーラーパークへ向かった。

近づくほど空気が悪くなる。

錆びた鉄の缶詰みたいな一帯。下水の酸っぱい悪臭に化学工場の廃ガスが混じり合う。これが奈々の生活の匂いだ。

ぬかるんだ砂利道を踏み、塗装が剥げた白いトレーラーの前で足を止める。

錆びた鉄の段に足をかけた瞬間、「ギギ……」と歯が浮くような音がした。

深呼吸して、歪んだドアノブを回す。

隙間が開いた途端、安タバコとカビた布と、昨夜のピザの重たい臭いがぶわっと襲ってきた。

「よく帰ってこれたね」

暗いリビングから、甲高い声。

母親が数日洗っていないパジャマ姿でソファにだらしなく座り、タバコを挟んだ指のまま深夜のテレビショッピングを睨んでいる。振り返りもしない。

「図書室に行ってた」奈々はドアを閉めた。

「図書室? ははっ」母は灰色の煙を吐いて冷笑する。

「そこ行けば明日の朝飯が湧くの? それとも家賃が払える? 阿部奈々、高校卒業したんでしょ。大人よ。妄想で生きてるお嬢様じゃないの!」

奈々は黙って狭いキッチンへ行き、バッグを調理台に置いた。

シンクには汚れた皿と油まみれのフライパンが山。空き缶が転がり、床はいつこぼしたのかシロップでべたべたしている。

「話してんのよ、耳ついてないの?」母は落ちくぼんだ目で奈々を刺した。

「十八年育てた! 身体だってもうボロだ、立ってりゃ腰が痛い。なのにあんたは、あの躾のなってないモニカとつるんで、ヤンキーでも目指す気?」

「モニカはヤンキーじゃない」奈々は小さく言って、水を出した。

冷水が油を流し、指先が痛む。

「口答え?」母の声が跳ね上がり、吸い殻をテーブルの灰皿にねじ込む。

「自分が何様だと思ってるの? この町から出られるとでも? いい? あんたも私と同じ。ここで腐って終わりなんだよ! 明日朝6時にロードサイドレストラン行け。皿洗いが空いてるか聞いて来い! 今週の食費を取ってこなきゃ、二人でこの鉄の箱で餓死だ!」

ヒステリックな罵倒が続く。

奈々は歯を食いしばり、一言も返さなかった。

分かっている。

ここで反論すれば、母はすぐ暴れ、手の届くものを叩き壊し、泣き喚き、自分の不幸を嘆き、奈々を冷血で不孝な娘だと責める。

そして一週間、息が詰まるほどの冷たい暴力で奈々を追い込み、最後の金まで差し出させる。

この家の雑用も出費も、雨漏りの修理も、全部奈々の肩に乗っている。

母は底なしの穴だ。正義面して奈々のすべてを奪い、道徳と血縁の鎖でこのボロトレーラーに縛りつける。

黒ずんだスポンジで機械的に皿を洗いながら、背後で母の罵りが愚痴へと変わっていくのを聞く。

その瞬間、奈々は自分の弱さが憎かった。家に縛られ、吸い尽くされる生活が憎かった。

モニカは尻を叩いて出ていける。

でも奈々は?

この町にいる限り、この家にいる限り、母に少しずつ干からびるまで吸われ続ける。

母が欲しいのは奈々の未来じゃない。金を運び、鬱憤を受け止める道具だ。

最後の皿を洗い終え、手を拭き、狭い廊下を無言で抜けてトレーラーの奥の部屋へ。

入った瞬間、鍵をかける。

「カチャ」

薄い木の扉が施錠される音が、甘美だった。

この扉の向こうにいる時だけ、奈々は自分が呼吸していると感じられる。

部屋は狭い。シングルベッドと、段ボールで作った即席の衣装箱があるだけで、足の踏み場もない。

服も脱がず、へたりかけたマットレスに倒れ込み、身体を丸めた。

扉越しにテレビの音と、母の咳がぼんやり聞こえる。けれど、もう何を言っているかは分からない。

天井の剥がれかけた壁紙を見つめていると、夜の静けさが勝手に思考を回し始める。

今日のこと。十八年の人生。

もし出なければ、何が待っている?

明日、奈々はあの油と安いコーヒーの臭いが染みついたロードサイドレストランへ行く。脂ぎった制服を着て、無礼なトラック運転手に愛想笑い。

稼いだ雀の涙を全部あの女に渡し、タバコとビールと無意味なテレビ通販に消えていくのを見送る。

五年後、奈々の顔には同じ皺が刻まれ、目は同じように濁り、言葉は同じように棘だらけになる。

雨漏りするトレーラーパークに埋もれ、この寂れた町の一部として死ぬまで朽ちていく。

――嫌だ。

奈々はシーツを握り潰した。

絶対に嫌だ。死んだほうがましだ。

脳裏にまた、共同図書室のパソコン画面の一番下に隠れていた求人リンクが浮かぶ。

郊外私立・重度精神病院。

三か月。閉鎖の住み込み。500万。

そして、ぞっとする免責文言。

「不慮の事故」「精神崩壊」「生涯沈黙」。

まともじゃない。理性があるなら避ける場所だ。

高給の裏には、命を削る代価がある。

でも――今の奈々に、理性は本当に必要なのか?

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