第4章 幽霊を見る
廃れた公園。
阿部奈々は塗装の剥げたベンチに座り、自分もこのボロ公園みたいに、世界から丸ごと捨てられた気がしていた。
モニカは横で苛立たしげに行ったり来たりし、ファストフード店からくすねた皺だらけの紙ナプキンをポケットから取り出した。半分だけ、妙に間抜けなハンバーガーの絵が印刷されている。それを乱暴に阿部奈々の手に押し込む。
「泣くなって、奈々」
モニカは頭をぐしゃぐしゃ掻いた。
「最悪、あたし行かない。500万なんてクソくらえ。あたしが残って一緒にいる!」
阿部奈々は鼻をすすった。目の縁が赤くて、哀れなウサギみたいだ。
「バカなの? 行かないって? ここに残って、あたしと一緒にカビる気?」
モニカは口の端をわずかに上げたが、すぐに顔が落ちる。
阿部奈々はポケットから、蜘蛛の巣みたいに画面が割れたポンコツのスマホを取り出した。
さっき図書館で逃げた時、パソコンすら閉じていない。けれどスマホのメールは自動ログインのままだった。
読み込みはカタツムリより遅いくせに、あの拒否通知だけは、しれっと受信箱のいちばん上に居座っている。
画面の「不合格」を見た途端、涙がまたぽたぽた落ちた。
「人生終わったよ、モニカ……」
しゃくり上げながら、頭の中は最悪の未来でいっぱいになる。
「明日、ママに無理やりロードサイドのレストラン受けさせられる。玉ねぎ臭い制服着て、太った店主のカールに尻触られて……そのうち、顔テカテカで文句しか言わない女に……」
「言うな! 自分のことをそう言うな!」
モニカが阿部奈々のスマホをひったくり、画面を睨みつける。指でイライラと叩いた。
「このクソシステム、絶対おかしい。入力同じなのに、なんであたしで、あんたじゃないの? あたしのほうがイカれて見えるから?」
文句を垂れながら乱暴にスクロールした瞬間、モニカの動きが止まった。
顔を近づけ、目を見開く。
「待って……奈々、このメールの容量、おかしくない?」
「え?」
阿部奈々が顔を上げる。長いまつ毛に涙が残ったまま。
「一行しかない不合格通知で、なんで2メガもあるの? 何が入ってんの? 象でも詰めた?」
モニカは唇を噛み、ぐいっと下へ指を滑らせた。
「うそでしょ……!」
突然、阿部奈々の肩を掴んで揺さぶる。頭の中身が混ざりそうな勢いで。
「奈々! 下! 下を見ろ!」
阿部奈々は目を回しながら覗き込んだ。
「一次不合格」の下に、妙に長い空白。――そのさらに下に、二ページ目があった。
太字の赤。
【システム訂正告知。同姓申請者のデータ統合に伴うコード衝突により、前記通知は自動誤送信されました。】
【阿部奈々様 一次審査通過をお知らせいたします。明日早朝6時ちょうど、身分証をご持参のうえ、ブラックパインズ交差点の廃ガソリンスタンドに集合してください。専用車にて病院エリアへ送迎いたします。注。通信機器の携行は禁止です。】
阿部奈々は呆然とした。
脳が一瞬だけ停電して、次の瞬間、1万ボルトで叩き起こされたみたいに。
「つまりさ、クソシステムがあんたを別の『阿部なんとか』と混同して、拒否は誤送信ってこと!」
モニカは興奮で顔を真っ赤にし、阿部奈々の頬を両手で挟んでぐりぐり揉んだ。
「通ったの! 通ったのよ、バカ! 一緒に行ける!」
「うわああああ!」
阿部奈々は巨大な棒キャンディをもらった子どもみたいに、モニカに飛びついた。
落ち葉とゴミだらけの草地で、二人は抱き合って、笑って叫ぶ。
「500万のために! 完全な自由のために! もう誰にも縛られないために!」モニカが叫ぶ。
「500万のために! 完全な自由のために! もう誰にも縛られないために!」阿部奈々も叫んで、馬鹿みたいに笑った。
この瞬間、二人の目には、それは地獄行きのバスじゃなかった。天国へ向かう馬車だった。
興奮が抜けると、二人は仰向けに寝転び、ぜえぜえ息を整えた。
最初に冷静になったのはモニカだ。安物の時計を見て、舌打ちする。
「今、午後2時。集合は明朝6時。準備は16時間しかない」
阿部奈々の笑みが、ゆっくり消える。
「通信機器持ち込み禁止って……変態みたい」小さくぼやく。
モニカは肩をすくめた。
「さあね。勤務中に動画でも見られたくないんじゃない? 大事なのは、奈々。荷物まとめて――それと、あんたの毒親をどうにかする」
阿部奈々の目が暗くなる。
「あの人、絶対行かせてくれない。三か月の閉鎖住み込みって知ったら暴れる。鍵かけるか、脚折るか……だって私がいなくなったら、家賃もタバコ代も払えなくなる」
モニカは起き上がり、真剣に阿部奈々を見た。両手で肩を押さえる。
「奈々、聞いて。これが最後のチャンス。今日あのドアを出られなきゃ、一生この町で腐る。分かる?」
分かっている。痛いほど分かっている。
さっきの、置き去りにされたと思った絶望――泥の底で息が詰まる感覚。二度と味わいたくない。
「分かってる。もう関係ない。絶対行く」
モニカは満足げに指を鳴らした。
「それでこそ。あたしは適当に服を数枚詰めるだけ。アル中の継父はたぶんバーで潰れてる。明朝5時半、町の入口のボロい広告看板の下。絶対ね」
「絶対」
二人は交差点で別れた。
阿部奈々は町の南、トレーラーパークへ向かう。
今回は、ポケットの中のポンコツスマホが、自由への免罪符みたいに重かった。
錆びた鉄の段を上がり、歪んだドアを押し開ける。
リビングの灯りは消えていた。
「どこ行ってた」
闇の中で、母の声だけが冷たく浮いた。
阿部奈々は息を呑み、声の方を見る。
母はいつものようにソファに寝そべってはいない。食卓に背筋を伸ばして座っていた。
その手にあるのは、阿部奈々の古いバッグ。
胸が沈む。
「返して」
母は動かない。阿部奈々を睨み据える。
「ロードサイドのレストランには聞きに行ったのか」
「行ってない」
阿部奈々は深呼吸して、腹を括った。
「もう行かない。新しい仕事が見つかった。精神病院で住み込み。明日の朝、出る」
阿部奈々がバッグを奪いに歩み寄ると、母は勢いよく立ち上がり、バッグを床に投げ捨てた。
「はぁ? 誰も行きたがらない私立の重症精神病院? 楽できると思ってんの?」
そして、低く言った。
「阿部奈々、あんた……知らないのかい」
「あそこはね、――生きて出てきた奴がいないんだよ」
