第5章 生き延びる道

「生きて戻った奴がいない?」

母の甲高い叫びが、阿部奈々の耳の奥でいつまでも反響していた。

――だから何だ。

奈々は歯を食いしばり、母の手から薄汚れたボロバッグをひったくると、振り返りもせず外へ飛び出した。

生きてるだの死んでるだの、知ったことか。

孤島にある精神病院よりも、雨漏りするこのトレーラーのほうが怖い。底なしに飲み込んでくる「家」という穴のほうが、ずっと。

深夜1:30。町外れのくたびれたバスターミナル。

通知に書かれていた集合場所は、ブラックパインズの交差点にある廃ガソリンスタンド。そこへ集められたあと、いったんメドウバンク港へ移動し、船で沖へ出るらしい。

表向きは「郊外の私立・重度精神病院」。だが実際の病棟は、郊外沿岸の近海に浮かぶ孤島に秘匿されている。全行程が閉鎖され、陸路の直通はない。

「で、バッグの中。金、いくら残ってる?」

待合の椅子にもたれたモニカが、古着のジャケットのポケットを裏返す。

落ちたのは、毛糸くずのついた50円玉が2枚。それと、くしゃくしゃのガムの銀紙だけ。

阿部奈々はしゃがみ込み、色あせたバッグをひっくり返した。

出てきたのは、途中で折れたリップクリームと、期限を3日過ぎたスーパーの割引券。

「ゼロ」

奈々は顔を上げ、無垢な大きな目をぱちりと瞬かせた。

モニカが苛立ったように髪をかきむしり、薄暗い灯りの券売窓口を睨みつける。

「港までのバス、1人2500円だってさ! 2人分で……腐ったホットドッグすら買えない!」

その場をぐるぐる二周して、歯噛みする。

「くそっ。出る前に、アル中の義父のポケットから札を抜いときゃよかった!」

「ダメ。見つかって通報されたら終わりだよ」奈々は慌てて袖をつかんだ。

「じゃあどうするの。歩く? 港まで十数時間だよ、脚ちぎれる。6時の集合に間に合わない!」

モニカは大きく息を吸い、頬を両手でパン、と叩いた。

「……仕方ない。いつもの手でいく。奈々、ここでじっとしてて。見てろ」

次の瞬間、モニカの顔が作り物みたいに切り替わった。今にも崩れ落ちそうな、苦しげな表情。

背を丸め、よろめくように、ガラスが汚れた窓口へ歩いていく。

窓口の中には、退屈そうにガムを噛む赤毛の女。

「お願いします、奥さん……」

モニカは両手をガラスに貼りつけ、震える声を絞り出した。目元が一気に赤くなり、涙までこぼれる。

「おばあちゃんが……メドウバンク港のセントラル病院にいるんです。医者からさっき電話が来て、もう……今夜はもたないって……」

すすり泣きながら、必死に涙を拭う。

「急いで出たら財布を盗まれて……お願いします、どうかこの便に乗せてください! 最後に一目だけでも……!」

数メートル離れた奈々は、息を止めた。モニカの演技は、ぞっとするほど上手い。

――普段なら、情に厚い年寄り相手なら通る。

だが赤毛の女は、まぶたすら上げない。

「パァン」

ピンクのガム風船が弾け、女はだるそうに白目を剥いた。

「あー、そう。感動的なお話ね」

安い青のアイシャドウを塗った目が、冷たくモニカを見上げる。

「先週金曜は、そばかすのガキが『祖父が港でサメに噛まれた』って言った。おとといは女の子が『家が燃えた』って泣きながら、いとこに金借りに行くってさ」

女は鼻で笑い、太い指でガラスをコツコツ叩いた。

「聞きな、嘘つき。今週『親族が危ない』って言いに来たのは、あんたで10人目。町の不良ども、たまには脚本変えな」

モニカの泣き声が、ぴたりと止まる。

「ち、違います。誓って本当で――」

「失せろ! 金がないならスラムに帰って寝ろ! 窓口塞ぐな!」

ガタン、と乱暴にシャッターが下りた。会話終了。

モニカはその場で硬直し、悲しみは一瞬で怒りに変わった。窓口下の壁をドン、と蹴り、悪態を吐きながら戻ってくる。

「冷血のクソババア! 絶対地獄に落ちる!」

奈々は何も言えなかった。

正規のルートが、断たれた。

切符がなければ、ホームに停まっているグレイハウンドに乗れない。乗れなければ、明朝6時の送迎に間に合わない。

間に合わなければ――500万の報酬は泡。

終わりだ。

モニカは空気の抜けた風船みたいにしゃがみ込み、顔を腕に埋めた。

「……もういい、奈々。たぶんこれが運命。あたしたちみたいな人間は、新しい生活なんて持っちゃいけない」

声には、濃い絶望がまとわりついている。

「義父のとこ戻る。あんたも皿洗いに戻れ」

「……違う」

モニカが顔を上げた。

奈々が、ホームのバスを睨みつけていた。

いつも怯えて引っ込み思案だった奈々。その柔らかい顔のまま、目だけが異様に光っている。暗闇で獲物を狙う子狼みたいに。

「奈々……大丈夫?」モニカが思わず身を引く。

奈々はモニカを見ない。白く細い指を、ゆっくりとバスの側面へ向けた。

「モニカ。あそこ」

荷物収納のハッチ。

運転手が売店へコーヒーを買いに行った隙なのか、金属の扉が半分開いたままになっている。中は真っ暗で、口を開けた鉄の獣みたいだった。

「……何、見てんの」モニカが唾を呑む。嫌な予感が背骨を這う。

奈々が振り返り、真正面からモニカの目を見た。

「入る」

「はぁ?!」

モニカが跳ね上がった。奈々を見る目が、完全に正気じゃない奴を見るそれになる。

「頭おかしいの?! あれ荷物の底だよ!」

声を落として、両手をぶんぶん振り回す。

「暗い! 暑い! 息できない! あたしたち、オーブンの七面鳥みたいに蒸し焼きで死ぬ!」

「運転手に見つかったら警察! 一発で終わり!」

――蜘蛛一匹で自分の背に隠れる奈々が、バスの底に潜り込む?

「町に残ったら、七面鳥ですらない」奈々の声は低く、硬い。「下水のネズミだよ」

奈々は怯まない。大きな目の奥で、決意が燃えていた。

「ロサンゼルス行きたいんでしょ? 中古車の色まで決めたんでしょ? 500万は、その先にある!」

奈々がモニカの肩をつかむ。指先が震えているのに、力は強い。

「これが唯一のチャンス。港まで3時間。ハッチは完全密閉じゃない。3時間耐えれば、新しい人生が手に入る!」

奈々は一歩近づき、逃げ道ごとモニカを押し込むみたいに言い切った。

「ここで一生、貧乏やる? それとも――一緒に賭ける?」

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