第6章 息を吹き返す
「……本気なの?!」
モニカが声を殺して叫んだ。目ん玉が飛び出しそうなくらいだ。
目の前にいるのは、ふだんゴキブリ一匹踏みそうになっただけで大騒ぎする阿部奈々。そんな奈々が、いま、ありえないことを言った。
背は高くない。顔立ちは丸くて、どう見ても攻撃性ゼロ。水っぽいほど潤んだ大きな瞳は、いつもなら無垢なロップイヤーみたいに見える。
その「ロップイヤー」が、いまはモニカの腕をぎゅっと掴み、半開きの金属ハッチを獲物でも見るみたいな目で睨みつけていた。
「急いで! 運転手、すぐ戻ってくる!」
奈々は迷う隙を与えない。後ろからモニカの背中を、ぐいっと押した。
「うわっ!」
モニカは無防備のまま、みっともない勢いで霉臭いバッグと硬いスーツケースの山へ、顔から突っ込んだ。
奈々も続く。ぬるり、と泥鰌みたいに荷物の隙間へ滑り込む。
踵がハッチの内側へ消えた、その瞬間。
バス前方から、重く苛立った足音が近づいてきた。
「クソ自販機が50円食いやがった! 出てきたのは洗い物の水じゃねぇか!」
運転手のしゃがれ声が、だだっ広いホームに反響する。
闇の中で、二人は一瞬で凍りついた。身体を密着させ、息まで喉で殺す。
「ドン!」
運転手がタイヤを蹴り、側面へ回る。粗い手がハッチの縁を掴んだ。
「ガン――カチャ」
重い金属扉が叩きつけられ、鍵がかかった。
もともと薄暗い収納スペースは、指先すら見えない完全な闇へ落ちる。
直後、エンジンが爆ぜるように唸り、底が激しく震えた。
走り出した。
「……神様……」
モニカがようやく息を吐いた。まだ震えが残る声。手探りでスマホを取り出し、画面を点ける。
冷たい光が、二人の惨状を照らした。
モニカの髪は鳥の巣、頬には煤みたいな汚れの筋。
奈々は巨大な赤白チェックの編み袋の横に縮こまり、膝を抱える。顔は真っ青なのに、目だけが異様に明るかった。
「信じらんない」
モニカは硬いトランクにもたれ、奈々の柔らかい顔を見て口元を歪める。
「奈々、さっき完全に凶悪犯だった。あたしの後ろで隠れてるだけの子だと思ってたのに、あんたの方が命知らずじゃん」
奈々が瞬きをする。張り詰めていた神経が、少しだけほどけた。
「私が狂わなきゃ、明日の朝はロードサイドレストランの厨房で、油まみれのフライパンと添い遂げることになる」
モニカは数秒じっと見つめてから、ぷっと吹き出した。
「それな! ロードサイドレストランなんてクソ! 雨漏りトレーラーもクソ! アル中の義父もクソ!」
勢いよく拳を振り上げた拍子に、頭上の金属板へゴンッと当てる。
「いって……!」
「しっ、静かに」
奈々が慌てて口を塞ぎ、上を指した。
「上、客席だよ。聞かれたら運転手に言われて捨てられる。密航者扱いで」
モニカは頷いて、きゅっと口を閉じた。
狭い空間は濃いディーゼル臭と、タイヤの焦げた匂いで満ちている。吐き気が込み上げるほどだ。
サスペンションも最悪で、ハイウェイの段差を踏むたび二人は荷物ごと浮き、叩き落とされる。
快適とは程遠い。
それでも奈々は、奇妙なくらい落ち着いていた。
この暗く臭い箱の中には、母親の罵声も、支払いの催促も、終点が見え切った絶望もない。
十八年で初めて、「自由」という言葉が本当に身体の内側に触れた気がした。
短い興奮のあと、疲労と未知への恐怖が闇の中でじわじわ広がる。
モニカは電池を惜しんで、スマホの光を消した。
「奈々」
「ん?」
「……あの精神病院って、結局どんな場所なんだろ」
奈々は黙り込む。何度も何度も、自分の頭の中で転がした問いだ。
「三か月で500万って、普通じゃない。うちの町じゃ化学工場で荷運びして一年働いても届かない。なんで高校出たばっかの女の子二人にそんな金払うの」
脳裏に、あの応募ページの条項がよぎる。
【不慮の事故】、【精神崩壊】、【生涯沈黙】。
「……分かんない。患者が本当に手に負えないとか。噛むとか、暴力的とか」
「噛まれる程度なら、安すぎるくらいじゃん」
モニカの声が、ふっと沈む。
「トム、覚えてる?」
「コンビニの大男?」
「そう。前に街で見た時、痩せてただけじゃなかった。あたし誓うけど、消火栓の前で急に跪いて、頭下げてた。『見るな、見るな』って呟きながら」
奈々の背筋に冷えが走り、腕の産毛が立つ。膝を抱える腕に力が入った。
「……そこで何を見たの?」
「さあ。孤島で、海に囲まれてて、電波塔もないんだろ」
モニカはため息をつく。
「精神病院じゃなくて、人体実験の秘密施設とか? あたしたち、マッドサイエンティストのモルモット?」
「やめてよ、モニカ」
奈々の声が震える。想像だけで寒気が止まらない。
「はいはい、言わない」
闇の中でモニカが手探りし、奈々の冷たい手を掴んだ。ぎゅっと、強く。
「奈々、いい? 地獄でも病棟でも、今は一緒だ。ヤバかったら逃げる。最悪、夜中に海に飛び込んで泳いで戻る。とにかく、あたしはあんたを置いていかない」
掌の熱が、宙に浮いていた奈々の心を少しずつ下ろしていく。
そうだ。少なくとも、二人には互いがいる。
「メドウバンク港まで三時間くらい。途中で八回停まる。港が終点」奈々は自分に言い聞かせるように呟いた。「寝落ちしたら、車庫まで連れていかれる」
「この揺れで寝れるわけないって」
モニカが小さく笑った。
