第7章 新天地
……と言ったそばから、その「絶対眠れない」親友は、巨大なハードケースにもたれかかって四肢を投げ出し、口を半開きにしたまま、規則正しく盛大ないびきをかいていた。
阿部奈々はため息をひとつ。闇の中で白目をむく。
モニカの神経、マジで水道管より太い。
奈々は膝を抱え込んだまま、バスの揺れに振り回され、赤白チェックの編み袋とスーツケースの間を人形みたいに転がされた。全身の骨が抗議している。太ももは段ボールの角で何カ所も青あざだ。
それでも眠れない。いや、眠ってはいけない。
一秒でも目を閉じたら、途中の停留所を逃して、そのまま長距離バスターミナルの車庫へ――そして、荷物の底で忘れられた七面鳥みたいに蒸し殺される。
(……一つ目)
奈々は心の中で数えた。
バスが止まり、誰かが降りる気配。前のほうから荷物袋がひとつ引き抜かれた。
(……二つ目)
時間が、この黒くて臭い箱の中で異様に伸びていく。
奈々は太ももの内側を爪でつねり、痛みで意識をつなぎ止めた。
ロップイヤーみたいに無垢だと言われた大きな目は、今や真ん丸に見開かれ、赤く血走っている。
脳裏を何度も再生されるのは、母の意地の悪い顔と、ロードサイドレストランの油まみれのフライパン。
今夜さえ越えれば。あの最悪の三時間さえ耐えきれば。
500万。
ロサンゼルスの陽光。
罵声も、請求書もない世界。
奈々は歯を食いしばり、疲労も恐怖も、喉の奥で噛み殺した。
どれだけ経ったのか。
ハッチのゴムの隙間から、灰色の薄い光が差し込んできた。
夜がほどけていく。もうすぐ朝だ。
バスがゆっくり減速し、キーッと耳を裂くブレーキ音。車体が大きく揺れて、完全に止まった。
(……六つ目)
奈々の乾いた唇がわずかに動く。
次が終点。メドウバンク港。
奈々は息を吸い、隣で死んだみたいに眠るモニカを押した。
「ねえ、起きて。よだれで人の革トランクが沈む」
モニカがびくっと跳ね、闇の中で数回まばたき――次の瞬間、息を呑む。
「うそ、寝てた?!」声を潜めた悲鳴。「奈々! なんで起こさないの! あんた一人で一晩中――」
差し込む薄明かりで、奈々の青白い顔と濃いクマが見えた。モニカの表情が一気に崩れる。
「……あたし、最っ低。クソ野郎だ」頭をぐしゃぐしゃ掻く。「一人で見張らせて、何かあったら――」
「しっ、うるさい」奈々は手を叩き落とし、今にも折れそうな腰をさする。「もうすぐ港。力残しといて。逃げ方、考える」
モニカは頬を両手で叩き、無理やりスイッチを入れ直した。
「いい、奈々。車が止まったら運転手がハッチ開ける。あたしたち、いちばん奥のこの編み袋の影に隠れる」
「外の荷物を引きずり出して、あいつが荷台カート押しに背中向けた瞬間――そのまま飛び出す。分かった?」
奈々は頷く。手のひらが冷や汗でぬるい。
「速く。迷うなよ」モニカが奈々の冷たい手を握った。「準備いい?」
「……うん。できてる」
エンジンが最後に唸り、バスは完全に沈黙した。
終点――メドウバンク港。
外から人声。カモメの鳴き声。遠くで汽笛。
そして、運転手の重く苛立った足音。
「カチャッ!」
金属のロックが外れる音が、耳元で爆ぜた。
奈々の心臓が喉まで跳ね上がる。二人は最奥の影へ身を寄せ、巨大な赤白チェックの編み袋で体を隠した。
「ガラ――ッ」
ハッチが乱暴に開き、朝の港の眩しい光が一気に流れ込んだ。目が焼ける。
塩と生臭さの混じった海風が、吐き気のするディーゼル臭を押し流していく。
「ちっ、どんだけガラクタ持ってんだよ、こいつら」運転手のしゃがれ声。
近くのスーツケースをいくつも乱暴に引きずり出し、地面にドン、ドンと落とす。
奈々は息を殺し、汚れた革靴の大きな足だけを凝視した。
運転手が腰を曲げ、半身を荷室に突っ込む。奥の旅行バッグへ手を伸ばす。
その指先が、奈々の膝から十センチもない。
安いタバコ臭が鼻を刺した。
「くそ、引っかかってんな」
乱暴に引き抜き、バッグを外へ。
そして運転手は背を向け、荷物カートのほうへ歩く。
「今!」モニカが息だけで言った。
二人は尻尾を踏まれた野良猫みたいに飛び出した。
奈々は半メートルの縁から転げ落ち、膝をアスファルトに強打する。涙が滲むほど痛い――それでも声は出せない。這うようにしてモニカと自販機の列の陰へ滑り込んだ。
「ドン!」運転手がカートを押して戻ってくる。
その数秒で、荷室の「密航者」が消えたことに気づきもしない。
自販機の裏で、二人は息を貪った。肺が破れそうだ。心臓が胸を蹴り破りそうに暴れる。
「……やった……!」モニカが震える声で笑う。
灰だらけの奈々を見て、こらえきれず噴き出した。
「奈々、あんた今……炭鉱から掘り出されたネズミみたい」
「笑ってる場合じゃない」奈々は睨み返し、自分の服を見る。
二手のセーターは埃と謎の油でぐちゃぐちゃ。髪は鳥の巣。膝のジーンズは擦り切れて穴が空いている。
体中が痛い。だけど――生きてる。
ボロい町を抜けた。メドウバンク港まで来た。
「時間!」奈々は膝をさすり、周囲を警戒した。「今、目立ちすぎる。何時?」
モニカも表情を引き締め、スマホを取り出して画面を点ける。
「5時20分。集合は6時。あと40分ある」
「ブラックパインズの交差点の廃ガソリンスタンド……」奈々はメールの文面を繰り返す。
小さく息を呑み、モニカを見る。
「場所、分かる?」
