第8章 コンタクトパーソン

「……わかんない」

阿部奈々とモニカは、迷子の野良猫みたいに、だだっ広い港の広場で立ち尽くしていた。人影のない空間に風だけが抜け、二人の視線は行き場を失って右往左往する。

「とりあえず、あっち行ってみる?」

阿部奈々が、港の端に伸びる雑草だらけの分かれ道を指さす。

「それしかないでしょ」

モニカは苛立ち紛れに髪をぐしゃっと掻いた。

「迎えの目印もないとか何なの。まさか『自力で島まで泳げ』って? ありえないんだけど」

ぶつぶつ文句を垂れながら歩き続け、時刻は5:50。

ハイウェイの突き当たりで、ようやく錆びた金属看板が見えた。泥の地面に斜めに刺さり、かろうじて読めるのは『ガス』の文字だけ。周囲には誰もいない。迎えのバスどころか、猫一匹すら通らない。

「……ここで合ってる?」

モニカが唾を飲み、あたりをきょろきょろと見回す。

「メールには、そう……」

阿部奈々は蜘蛛の巣みたいに割れた画面のスマホを取り出し、もう一度確認する。

「最悪。担当者名も連絡先もナシ! これ、変態の悪戯じゃないの?」

モニカが石ころを蹴り飛ばす。

「こっちはバスの腹に潜ってまで来たんだよ!」

時間と場所だけ。電話番号もない。

冷たい風の中で、二人は存在しない幽霊を待ってるみたいだった。

そのとき。

「ブォン――」

低く荒々しいエンジン音が、朝の静けさを引き裂いた。霧を割く二本のヘッドライトが、刃物みたいにこちらへ突き刺さる。

漆黒の大型SUVが、ハイウェイの向こうから猛スピードで突っ込んでくる。窓は死んだみたいに黒い防爆フィルムで塗り潰されていた。

車は二人の目の前、半メートルもない場所で急停止する。

キィィィッ、とタイヤが甲高く鳴き、砂埃が舞い上がった。

「ひっ……!」

阿部奈々は悲鳴を上げ、反射でモニカの背中に隠れ、裾をぎゅっと掴む。

ドアが開いた。

黒いパンツと重いブーツ。長い脚が地面に降りる。

男はゆうに190センチはある。黒のコートを着込み、立っているだけで空気が冷える。

そして顔。

彫りの深い、攻撃的なほど整った顔立ち――そこに、左目尻から顎骨まで走る醜い傷。

病院の迎えというより、マフィアの処理係のほうがしっくりくる。

男の視線がレーダーみたいに二人をなぞり、背後に隠れた阿部奈々で半拍だけ止まった。

阿部奈々はひどい有様だった。

バスの荷物室の底で転がったせいで髪は鳥の巣、白い頬には煤みたいな汚れが二筋。ロップイヤーみたいな大きな目は怯えで潤み、目の縁が赤い。今にも泣き崩れそうな弱さ。

弱すぎる。

下山凛の瞳に、ほんのわずかな異物がよぎる。

こんな柔らかい兎を、骨まで喰う場所へ? 初日の巡回すら耐えられず、壊れる。

「モニカ。阿部奈々」

名を呼ばれ、モニカが喉を鳴らして頷く。

「は、はい……私たちです。精神病院の迎え?」

「下山凛。お前らの担当だ」

男は冷たく名乗ると、車の後部へ回り、黒い金属の遮断ケースを取り出して突き出した。

「通信機器を全部出せ。スマホ、電子時計、電波を出すもの」

「え?」

モニカが目を剥き、声が上ずる。

「持ち込み禁止とは書いてあったけど、没収なんて――家族に連絡が……」

下山凛の黒い目が、刃みたいにモニカを刺した。

モニカの言葉が喉で凍る。背中に汗が走った。

こいつは本気で首を折る。そういう確信だけが、胃の奥に落ちてくる。

「出すか、今ここで消えるかだ」

阿部奈々が慌ててモニカの袖を引いた。

逆らえない。

阿部奈々は割れたスマホを震える指で取り出し、恐る恐る箱に入れる。

モニカも歯を噛み、スマホを放り込んだ。

「乗れ」

下山凛が「パチン」と箱を閉じ、後部座席のドアを開けた。

今さら逃げても、見知らぬ港で無一文。帰りの切符すら買えない。

阿部奈々とモニカは、屠殺待ちのウズラみたいに車内へ潜り込んだ。

SUVは再び走り出す。ブラックパインズの廃ガソリンスタンドから、市街地のフェリー乗り場へは向かわない。港の最奥――深水の貨物エリアへ一直線。

阿部奈々は窓外の景色がどんどん見知らぬものに変わっていくのを見て、心臓が太鼓みたいに鳴った。

普通の道じゃない。

車は、5メートルはある通電フェンスの前で止まった。

黄色い警告看板。

『私有地 侵入者は死』

黒い防弾ベストにヘルメット、突撃銃を構えた警備員が二人、こちらへ近づく。

下山凛は窓を下げ、黒い金属の身分証を渡した。

一瞥した警備員は姿勢を正し、敬礼し、門のスイッチを押す。

重い扉が左右に滑って開いた。

SUVが侵入する。

コンテナが積まれた空き地を抜けた先で、二人は息を呑んだ。

桟橋に停泊していたのは、普通のフェリーでも医療船でもない。

灰黒に塗られた巨大な鋼鉄の怪物。船体に余計な窓はなく、分厚い装甲だけが冷たく光っている。

甲板には武装兵が三歩に一人、五歩に一哨。

大型の軍用犬が巡回し、喉の奥で低く唸り続ける。

サーチライトの冷光が霧を切り裂き、辺りを白昼みたいに照らしていた。

――病院へ行く船?

違う。

海に浮かぶ巨大施設。

「……これ、迎えの船なの?」

モニカの声が震える。阿部奈々の手を握る指が食い込み、爪が肌に刺さった。

阿部奈々は顔面蒼白で、息が詰まる。手のひらは冷や汗でぐっしょりだ。

どこの精神病院が、軍の秘密基地より厳重な警備をする?

付き添いに行くんじゃない。

奴隷になるんじゃないのか。

――人身売買じゃ……。

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