第1章 離婚カウントダウン
結婚記念日のその日、千崎舞歌のもとに友人から一本の動画が届いた。
映っていたのは――夫が大金を叩き、「高嶺の花」の江藤乃唯のために、数千万円はくだらないピアノを「歓迎の贈り物」として落札する姿。
それに対して、彼女が受け取った「贈り物」は、分厚い栄養食のレシピ本一冊だった。
朝。千崎謙人はそれを食卓の端にぽんと置き、舞歌に視線すら向けないまま言った。
「最近、胃に優しい飯でも覚えろ」
言いたいことは喉元でぐるぐる回るのに、最後に口をついて出たのは、情けないほど弱い声。
「謙人……今日が何の日か、覚えてる?」
千崎謙人は足を止めると、一枚の小切手にさらさらとサインし、投げるように寄こした。
「家用、また使い切ったのか? 毎日家にいるくせに、どこにそんな金を使うんだ」
舞歌が何か言う前に、彼は彼女が早起きして丁寧にアイロンをかけたスーツを手に取り、そのまま出ていった。
そのときの舞歌は、まだ自分に言い聞かせていた。
千崎謙人は「儀式」に興味がないだけ。だから記念日を忘れただけだ、と。
――けれど。
画面の中で、彼が江藤乃唯と十指を絡めて、こんなふうに告げるのを見た瞬間、何もかもが崩れ落ちた。
「別れてから1098日。毎日、君が帰ってくるのを待ってた」
……ああ、そういうことか。
彼に儀式感がないわけじゃない。日付を覚えられないわけでもない。
江藤乃唯に関することだけは、血肉に刻みつけたみたいに、何もかも鮮明に覚えている。
それに比べて、千崎舞歌のことは。
誕生日も、好みも、七年分の想いも――彼の中では「覚える資格」すらなかった。
窓の外は、明るさが薄れ、やがて闇になる。
舞歌はソファに座り尽くし、壁の時計が一目盛りずつ進むのを眺め続けた。
ふと、思った。
この「隠し婚」――もう、意味がない。
午前0時。鐘の音が鳴った。
舞歌はスマホを手に取り、三年沈黙していた番号へ発信した。
「流川さん」
「今からでも……あなたのチームに入れますか?」
受話器の向こう、男の低く艶のある声が返る。
「決めたんですか。俺は、栗原さんがまた私事で翻すのを望まない」
舞歌はスマホを握りしめ、指の関節が白くなる。
三年前。千崎謙人と結婚するために、彼女は「自分の未来」を捨てた。
今思えば、あの頃の自分は愚かすぎた。
国内最高峰の大学で最年少の生化学・医学ダブル修士。学生のうちから業界の大物が次々と声をかけてきたのに、千崎謙人を手放せず、流川財団当主からの誘いすら反故にした。
「三年、待つ」
あのとき彼はそう言った。気づけば期限まで残り一か月。
――でも、今は違う。目が覚めた。
三年分の失望と心砕ける痛みは、千崎謙人を見切り、自分を見つめ直すには十分だった。
「今回は……ありません」
嗄れた声で、一語一語、噛みしめるように言う。
「ひと月だけください。こっちの雑事を、全部きれいに片づけます」
「朗報を待ちます」
感情の読めない声が続く。
「ビザは手配しておきます。来月1日、私と一緒に出国してください」
一拍置いて、男は告げた。
「これが最後の機会です、栗原舞歌。……もう、私を失望させないで」
「はい」
通話を切ると、舞歌は書斎へ向かい、離婚協議書を用意した。
そのままソファで夜明けまで待ったが、千崎謙人は帰らない。
朝になってようやく電話が来た。淡々と、事務連絡のような口調。
「きれいなスーツ一着、俺のオフィスに持って来い。ついでに味噌汁も煮て来い。ネギは入れるな」
舞歌が口を開く前に、通話は切れた。
耳に残る冷たいツーツー音が、胸の奥の冷えをさらに深くする。
一晩帰らなかったことについて、説明は一言もない。
カウントダウン――残り29日17時間42分。
壁の時計を見つめながら、舞歌は胸をえぐるような痛みを押し殺した。
どうせ離婚する。期限が来れば、彼とは完全に無関係になる。
感情を整え、指定通り味噌汁を煮て、服を持って会社へ向かった。
オフィスの机の上には、ピンクのケーキ。甘い香りが漂っている。
舞歌は立ち尽くした。
千崎謙人は甘いものが嫌いだ。
じゃあ、これは誰のため?
そのとき、隣室から秘書が出てきた。舞歌を見るなり、どこか意味ありげに笑う。
「奥様。社長、何かやらかして怒らせちゃいました?」
「今朝早く、街の西側に新しくオープンしたスイーツ店でケーキを予約しろって。『謝罪』とか、そんな言葉も聞こえた気がして……」
「珍しく気が利いてますよね。さっき急用で出ちゃいましたけど、すぐ戻ると思います。中で待っててください?」
舞歌は無意識に、離婚協議書を握りしめた。
――千崎謙人が、間違いを認める? 自分を呼んだのは、謝るため?
秘書に礼を返し、オフィスへ入る。
なぜか手が勝手に動き、ケーキの箱を開けてしまった。
三年間、夫婦だった。
切り捨てるのが簡単なわけがない。まして彼女は、七年も片想いしてきたのだ。
もし、ほんの少しでも後悔があるなら。
せめて話し合って、穏便に終わらせられるかもしれない。
甘い香りに鼻先をくすぐられ、スプーンですくって口へ運ぶ。
クリームがとろりと溶けた瞬間――ムースの中に混じっていた硬い何かが、喉を通った。
胸がつかえ、舞歌は喉を押さえ立ち上がる。水を――そう思った、そのとき。
廊下から足音。続いて、聞き覚えのある声がした。
「俺が悪かった。昨夜、あんな遅くまで寝かせなかったのは……」
「謝罪の品も用意した。前から食べたいって言ってた店のケーキも。満足してくれるか、見に行こう。な?」
舞歌は、その場で凍りついた。
千崎謙人と江藤乃唯が、肩を並べて入ってくる。
二人は手を繋ぎ、距離が近い。彼の声は、舞歌が一度も聞いたことのないほど柔らかい。
そして江藤乃唯の鎖骨には、うっすらと艶めいた赤い痕。
――昨夜、一緒にいたんだ。
――このケーキも、私のためじゃない。
胸の奥から冷気が広がり、手足の先まで凍りつく。
最後の一滴の温もりだと思ったものは、ただの自作自演の笑い話だった。
ふらつきながら立ち尽くす舞歌の前を、二人は当然のようにオフィスへ入ってくる。
千崎謙人の視線が彼女に落ちた瞬間、眉がぎゅっと寄った。
「服と味噌汁を持って来いって言っただろ。届けたなら、何でまだいる」
江藤乃唯が興味深そうに彼女を見上げる。
「謙人、この人、誰?」
千崎謙人は一瞬沈黙し、淡々と答えた。
「家の人間だ。胃がつらいんだろ? 胃にいい栄養食を作らせた」
江藤乃唯は意味深に舞歌を一瞥し、にこやかに言う。
「へえ……家の。つまり家政婦さん? すごく若いね」
「謙人って堅い性格だから、気にしないで。わざわざ味噌汁まで、ありがとう」
舞歌は口を開いたが、喉が詰まって声にならない。
千崎謙人は訂正する気配すらない。――つまり、黙認。
考えてみればそうだ。
彼にとって「妻」の自分は、適当に命じられる家政婦と大差ない。
舞歌は江藤乃唯を無視し、掌に爪を食い込ませるようにして千崎謙人を見た。
「話がある。終わったら出ていく」
離婚協議書を取り出そうとした、そのとき。
千崎謙人の目がケーキに向いた。
眉間がさらに深く刻まれ、氷のような視線が刺さる。
「お前……乃唯のために用意したケーキ、食ったのか?」
舞歌が理解する前に、彼はスプーンで乱暴にケーキをかき回した。顔色がみるみる冷たくなる。
「千崎舞歌。わざとだな?」
「……何の話?」
茫然と見返す舞歌に、男は距離を詰め、手首を乱暴に掴んでソファへ叩きつけた。
「ケーキの中に、乃唯に贈るオーダーメイドの指輪を入れてたんだ!」
怒声が部屋を揺らす。
「どこだ。出せ!」
舞歌の顔から血の気が引いた。
さっき飲み込んだ硬いもの――あれが、指輪?
同時に、胃の奥がじくりと痛み出す。
「……飲み込んだ」
掌を強く握りしめ、震える声で続けた。
「知らなかった……」
千崎謙人の表情はさらに沈み、冷え切った目で彼女を見下ろした。
やがて机へ行き、電話を取る。
「俺のオフィスに来い。千崎舞歌を病院に連れて行って胃洗浄だ」
「罰だ。麻酔は使わせるな」
