第2章 彼女への償い
千崎舞歌は反射的に拳を握りしめた。
彼女の胃は、もともと丈夫じゃない。
育ての親に虐げられていたあの頃は、食べられる日もあれば食べられない日もあって、空腹と満腹を行き来するばかり。千崎謙人と結婚してからは、彼の帰りを待って晩ご飯を用意し、待ちくたびれて夜中になれば、食欲なんてどこかへ消えていく――そんな積み重ねで、なおさら弱っていた。
少し前の健康診断でも、医師にきつく言われたばかりだ。
「胃だけは絶対に無理をしないで」
麻酔なしで胃洗浄なんて、下手をすれば、本当に病院で死ぬ。
「やめて!」
一歩下がると、喉の奥がひりつくほど嗄れた声が漏れた。
「指輪は返す。でも……」
「条件を出す資格はない」
千崎謙人は冷たく言い切る。
「やったことの責任は取れ。全部、自業自得だ」
舞歌が言葉を継ぐ前に、秘書が二人のボディーガードを連れて上がってきて、肩を押さえつけた。
必死に身をよじって抵抗しても、大人の男二人の力にかなうはずがない。
引きずられるようにオフィスを出る寸前、江藤乃唯と視線がぶつかった。
彼女はどこか面白がるように首をかしげる。
「謙人、そんなにその家政婦が嫌いなの? どうして替えないの?」
千崎謙人は、舞歌が煮た「胃に優しい味噌汁」を乃唯の前に差し出し、淡々と答えた。
「目に入らない。嫌いも何もない」
「くだらないことで気分を悪くするな。指輪は汚れた。作り直してやる。埋め合わせだ」
二人の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
それを見つめながら、舞歌の胸の中がすうっと空っぽになった。
彼が自分を好きじゃないことくらい、分かっていた。離婚を考えたのも、ずっと前からだ。昨日の出来事は、ただ最後の一押しにすぎない。
それでも――まさか、「嫌い」ですらないなんて。
三年の結婚も、誰にも言えない片想いも、彼の心には何ひとつ残っていない。
嫌われる資格さえ、ない。
最後に残っていた執着が、霧みたいに散っていく。舞歌は赤く滲む視界を押し込め、ゆっくり顔を背けた。
――
結局、彼女は病院へ連れて行かれた。
処置室で、手足はベルトでがっちり固定される。
冷たい管が口に押し込まれた次の瞬間――内臓を引き裂かれるような痛みが押し寄せた。
舞歌は顔面蒼白になり、意識すら霞んでいく。
扉の外で、看護師たちがひそひそ声を交わしている。
「千崎社長、手段えぐすぎない? こんなの耐えられるわけないじゃん。あの子、何したの。あの人に」
「聞いたよ。千崎社長が江藤さんにプロポーズする指輪、わざと飲み込んだんだって。江藤さんって千崎社長の高嶺の花だもん。昔、江藤さんが海外に行くって時、千崎社長、千崎家大旦那様の前で長跪きして……杖で三本折られても離さなくて、最後は千崎家大旦那様が入院したって……」
ここは千崎グループの病院だ。噂なんて、いくらでも回る。
舞歌は身を削がれるような痛みに裂かれながら、自分がいなかった年月の、千崎謙人と江藤乃唯の「過去」を聞かされ続けた。
自分が事故で死にかけても見舞いに来なかった千崎謙人が、乃唯の風邪には街を横断して薬を届けに行った。
高慢で清貴、家事なんてしない男が、人前で片膝をついて靴ひもを結び、彼女が生理痛でうずくまれば甘いものを煮て、夜通し傍にいた。
冷淡で、人を愛せない性格だったわけじゃない。
舞歌が温められなかった氷は、別の場所では灼ける溶岩になっていた。愛が、誰の目にも明らかなくらい熱かった。
――だからこそ、自分が滑稽で仕方ない。
どれほど時間が過ぎたのかも分からない。
舞歌は痛みの中で意識を失った。
目を覚ましたとき、看護師が傍らに立っていた。どこか気遣うような目。
「……奥様。ご存じですか。あなた、妊娠されています」
体の痛みはまだ残っていて、舞歌の頭はぼうっとしていた。
けれどカルテに記された「妊娠5週」の文字を見た瞬間、脳内で何かが爆ぜた。
先月、千崎謙人が酔って――確かに一度だけ、あった。
もし以前なら、嬉しくてたまらなかったかもしれない。子どもが絆になって、きっと関係も良くなる、と。
でも今は違う。
こんな屈辱を抱えたまま、子どもを産めるはずがない。
舞歌はベッドシーツを握りしめた。
「……今、中絶したら。1か月後、体は戻りますか」
看護師は戸惑う。
「でも、今の状態で手術は……最低でも1週間は安静が――」
そのとき、廊下から足音が近づいた。
続いて、低く沈んだ声。
「1週間も安静が必要な手術って、何だ?」
舞歌の体が強張る。顔を上げると、千崎謙人が扉の外に立っていた。眉がきつく寄っている。
看護師が口を開きかけたが、舞歌が先に言った。
「胃の小さな不調です。手術は1週間待たないと」
「……すみません。先に出てください。必要なら、こちらから連絡します」
看護師は頷いて出ていった。
扉が閉まって、舞歌はようやく息を吐く。
そして何事もなかったように千崎謙人を見た。
「……用?」
そのよそよそしい口調に、千崎謙人が一瞬だけ虚を突かれた顔をした。
電話に出ないから騒ぐと思って来た。まさか胃の不調で一晩も意識を失っていたとは。
来る前は、彼女が泣き叫んで責め立てるか、祖父に告げ口するか――そんな反応を想像していた。
けれど、彼女は静かすぎた。
抑えきれない苛立ちが胸に湧く。千崎謙人は唇を引き結び、言った。
「指輪は、乃唯にとって大事なんだ」
――説明、してる?
舞歌は自嘲めいた笑みを浮かべた。三年、ただの一度も聞けなかった「説明」を、今さら。
「分かった。おじいさまには言わない」
千崎謙人の拳がきゅっと握られる。ますます異常に感じたのだろう、しばらくして彼は珍しく自分から続けた。
「乃唯が戻っても、お前の千崎家奥様の立場が揺らぐことはない。言うことを聞くなら、離婚はしない」
「今日の件は、俺も少しやりすぎた。埋め合わせはする。欲しいものがあるなら言え」
舞歌は彼を見つめ返す。
布団の下で握った拳は白く、指の関節が痛いほどだった。
好きでもないのに、離婚はしない。
理由は分かる。千崎謙人のおじいさん、千崎達郎の反対――それだけだろう。高嶺の花が戻ってきても、妻を盾にするつもりだ。表では婚姻を保ち、裏では甘い時間を続ける。
どれほど自分を卑しい存在だと思っているのか。
何をされても、きっと黙って従う――そう信じている。
沈黙ののち、舞歌は唇を薄く持ち上げた。
腹を割って話す必要すらない。
彼女はベッドサイドの書類を引き寄せ、最後のページを開いて差し出した。
「ちょうど車を買いたいの。契約書がここ。署名して」
「署名したら、これまでのことは水に流す」
千崎謙人は眉をひそめた。拍子抜けするほど、彼女があっさり引いたからだ。
ふいに、前のページをめくって車種を確認しようと手を伸ばす――そのとき、スマホが鳴った。
画面に浮かんだのは、江藤乃唯の名前。
千崎謙人は言いかける。
「俺は――」
「大丈夫。行って」
舞歌はペンを差し出した。
「あなたの妻が私だなんて、彼女には言わない」
千崎謙人は唇を引き結び、結局署名して、病室を出ていった。
舞歌は書類を閉じ、ようやく息をつく。
これで、最後の「引っかかり」も片づいた。
1か月後。何の未練もなく出ていける。もう誰にも、邪魔されない。
