第3章 お前はどうしてこんなに悪辣なんだ
三日休んだあと、栗原舞歌は自分で退院手続きを済ませた。
帰る前に、産婦人科へも足を運ぶ。
診察の結果は週数が浅く、薬での中絶が可能――自宅で二日間服用し、その後に再診して、掻爬が必要かどうかを判断するという。
薬を受け取って帰る道すがら、舞歌はそっと下腹に手を当て、心の中でその子に謝った。
もうこれ以上、折り合いをつけて生きたくない。
愛してくれない父親のもとへ、子どもを縛り付けたくもない。
頭では理解しているのに、胸の奥は空っぽになったみたいに痛んだ。
自分の血のつながった命だ。千崎謙人を諦める決意はできても、この子を終わらせることまで、何も感じずにいられるはずがない。
落ち着かないまま帰宅し、扉を開けた瞬間――リビングから笑い声が飛び込んできた。
「謙人、この家ほんと綺麗。私、ここに住んだら迷惑?」
足が止まる。
栗原舞歌は、リビングに座る江藤乃唯と、床に山みたいに積まれた高級ブランドの紙袋を見た。
千崎謙人が答えかけたところで、玄関に立つ舞歌に気づき、言葉が喉で詰まる。
視線がぶつかった。
まさか、こんなに早く「高嶺の花」を家に連れ込むなんて。
痛みはもう味わい尽くしたのだろうか。
二人が自分たちの家にいるのを見ても、胸に残っていたのは冷えた痺れだけだった。
「荷物を取りに来ただけ」
長い沈黙のあと、舞歌は淡々と言った。
「お二人の邪魔はしない。すぐ出る」
謙人の眉がきつく寄る。
「出ていくのか?」
乃唯も顔を覗かせ、にこやかに言う。
「舞歌さん、お帰りなさい。さっきテーブルにレシピ本が置いてあって、謙人が『あなたの』って。手料理、食べてみたいなって思ってたのに……今、辞めるの?」
舞歌は返事をしなかった。時間を無駄にする気もない。
そのまま階段へ向かおうとした――が。
千崎謙人が、ぐっと彼女の手首を掴んだ。
「彼女は家政婦じゃない。俺の……政略結婚の妻だ」
恋人に誤解されたくないのか、付け足す。
「祖父が気に入ってる。それで娶った」
江藤乃唯の表情が一瞬だけ固まる。やがて申し訳なさそうに笑った。
「そうだったんだ。ごめんなさい、勘違いしちゃって」
そう言いながら、親しげに――それでいて嗔るように――謙人の腰をつねる。
「でも舞歌さん、あまりにも地味だから……想像できなかった。謙人もひどい。どうして紹介してくれないの? 前は私に隠し事なんてしなかったのに」
宣言だ。
あなたの隣は私、という。
舞歌はそれを読み取り、声も出さずに笑った。
「いいよ。どうでもいい」
どうせ、もうすぐ「妻」じゃなくなる。
謙人は眉をひそめたが、彼女がようやく大人しくなったのだと都合よく解釈したのだろう。
当然のように命じる。
「ちょうど飯どきだ。スーパーで食材買ってきて、作れ」
さらに平然と続けた。
「ついでに乃唯の生活用品も買ってこい。帰国が急で住む場所がない。しばらくうちに置く」
舞歌は、その理屈も遠慮もない顔を見て、胃の奥がむかついた。
三年こき使っておいて、今度は彼の「高嶺の花」まで世話をさせるつもりだ。
「やりたくない」
平坦で、冷えた声だった。
「そこまで江藤さんを気遣うなら、千崎さんが自分でやればいい」
舞歌は彼を見たまま言う。
「私、出ていくから。あなたたちが平気でも、私は気持ち悪い」
謙人の顔が沈む。
「舞歌、どういう意味だ」
怒気を押し殺した声。
「言っただろ。乃唯がいても、俺たちの結婚には影響しない」
舞歌は言い返す気にもならず、彼を避けて階段を上がろうとする。
謙人が追いかけようとした、その前に――江藤乃唯が先回りした。
「舞歌さん、もし私のことで謙人と喧嘩してるなら、私が出ていく」
目を赤くして、無垢を装う。
「私たち、あなたが思う関係じゃないの」
小さく息を吸い、怯えた声を作る。
「それとも……私があなたのことを家政婦だって勘違いしたのが嫌だった? なら、謝るよ……」
舞歌は冷たく一瞥しただけだった。
「いらない」
階段へ向かい、すれ違おうとした、その瞬間――
江藤乃唯の体がふらりと傾き、舞歌の下腹をローテーブルの角へ叩きつけた。
避けきれない。
反射的に乃唯の腕を掴む。
次の瞬間、二人はもつれたまま床へ倒れた。
舞歌の下腹に鋭い痛みが走り、視界がぐらりと揺れる。
「乃唯!」
千崎謙人の瞳孔がきゅっと縮む。
彼はソファにもたれ込んだ乃唯を抱き上げ、舞歌の蒼白な顔など見えていないみたいに、冷たく吐き捨てた。
「だからお前、さっきまで分かったふりしてたのか。結局、乃唯を恨んでるんだろ!」
「好意で止めに入ったのに、手を出すなんて……舞歌、お前はどこまで性根が腐ってる」
舞歌は痛みで声にならない。
謙人が、乃唯を抱きしめたまま命じる。
「知るべきことを知るまで、地下室に入れて反省してろ」
そして、言葉に刃を乗せた。
「千崎家の奥様が、この程度で嫉妬して騒ぐな」
舞歌は、ゆっくり顔を上げた。
「千崎奥様の座なんて、いらない」
「あなたに、私の自由を奪う資格もない」
息を整え、途切れそうな声で続ける。
「それでもやるなら、警察とメディアに知らせる」
「千崎グループの社長が、隠れ既婚のくせに、オープンに浮気してるってね」
視線を逸らさず、最後に問いかけた。
「千崎さん、その後始末……できるの?」
