第4章 だからこそ誰もお前を愛さないわけだ

「警察? メディア?」

千崎謙人は顔を曇らせ、鼻で笑った。瞳の奥には侮蔑が渦巻いている。

「舞歌。そんな脅しが俺に効くと思うか? 騒げば恥をかくのはお前だ」

江藤乃唯は彼の胸に身を寄せ、怯えたように袖をつまむ。

「謙人、もう……舞歌さん、きっと気が立ってるだけ。私は大丈夫だから、そんなに責めないで」

「わざとに決まってる。お前は優しすぎる」

千崎謙人は乃唯を見下ろし、どこか疲れたような声を落とした。

そして舞歌へ視線を移した瞬間、目つきが冷え切る。嫌悪を隠そうともしない。

「身の程を知らないなら、容赦しない」

従順で、逆らうことなどなかった女が――こんなことで自分を脅すなんて。千崎謙人は、心の底から苛立っていた。

屋外のボディーガードを呼ぼうとした、そのとき。

江藤乃唯が彼の腕をほどき、舞歌のほうへ小走りで近づいた。顔いっぱいに心配を貼りつけ、手を伸ばす。

「舞歌さん、ごめんなさい。謙人と喧嘩しないで。ちゃんと話そう? 私たち、わざと嫌な気持ちにさせたわけじゃ――」

指先が触れそうになった瞬間、舞歌の背筋がひくりと震えた。さっきの悪夢が蘇り、反射で身を引く。

その小さな動きが、千崎謙人の目には違った形で映った。

――乃唯に手を上げる気だ。

「何するつもりだ!」

怒号が耳元で炸裂する。

千崎謙人は数歩で距離を詰め、舞歌の細い腕を乱暴に掴んだ。骨がきしむほどの力。

「乃唯を傷つけたくせに、あいつが助けようとしてるのに、まだ手を出す気か? こんな陰湿な女、見たことない!」

舞歌は痛みで体から力が抜けていた。引き寄せられた拍子に足元が崩れ、頭がローテーブルの角へ向かって――

ごん、と鈍い衝撃。

視界が一気に暗く揺れ、耳の奥がじわじわ鳴った。

「謙人、やめて……舞歌さん――」

乃唯が悲鳴を上げる。目尻は赤く、今にも泣きそうだ。

「庇うな」

千崎謙人は冷たく遮り、舞歌を睨み据えた。嫌悪が露骨に滲む。

「自分が不幸だからって、他人まで巻き込むな。さっき押したのもそうだ。バレたら警察だの何だの言い出して、今度は手まで上げようとした」

違う。

腹の奥から痛みが這い上がり、四肢に散っていく。歯が勝手にかちかち鳴り、まるで肉を削がれるみたいに苦しい。

舞歌は、そんな卑怯なことはしない。

「……違う」

声を出すだけで喉が裂けそうだった。それでも、絞り出す。

「押してない。手も――出してない……」

「まだ言い訳するか?」

千崎謙人は聞く耳を持たない。目元は陰り、吐き捨てるように言った。

「お前はもう、狂ってる」

そして、淡々と――けれど一番残酷な刃を突き立てた。

「舞歌、だから誰にも愛されないんだ」

胸の中心を、鋭い針でえぐられたみたいに痛む。

舞歌が言葉を失うと、千崎謙人は彼女を視界から消すように顔を背け、乃唯を支えた。声は急に優しく、甘くさえなる。

「乃唯、大丈夫か? 触られてないか」

乃唯は首を横に振り、涙をこぼした。

「私は平気……謙人、舞歌さんを責めないで。きっと、つらくて……」

「もういい。お前が優しすぎるんだ」

千崎謙人は乃唯を抱き上げる。

「体も弱い。病院で診てもらうぞ」

そして舞歌へ、最後に冷えた言葉だけを投げた。

「目障りなんだよ。吐き気がする」

そう言い残し、彼は乃唯を抱いたまま出ていった。

振り返りもしない。

舞歌の目には、遠ざかる背中だけが滲んで見えた。まるで自分が、捨てるゴミか何かであるみたいに。

痛い。息をするだけで、痛い。

下腹が、何度も何度も刃で抉られる。頭もぐらぐらして、耳鳴りが止まらない。

このままじゃ――子どもも、自分も、死ぬ。

でも、死ねない。

あと一か月で、ここを出られる。今さら全部を台無しにはしない。

舞歌は歯を食いしばり、ローテーブルに手をついて立ち上がった。ふらつく足で玄関まで辿り着き、鍵をこじ開けるようにして、よろよろと別荘の外へ出る。

日差しが刺さる。視界が白く滲み、足元は綿の上みたいに頼りない。

どれほど歩いたのか。

太ももの内側に、ぬるりとした熱が走った。

舞歌は震える手で目を落とす。

赤い色が、ズボンの裾へ向かって広がっていく。

――この子……!

祝福されることもなく、胚になった瞬間から拒まれてきた命。

それでも、まだここにいるのに――離れていくの?

涙が一気に溢れ、視界が完全に滲んだ。

「ごめんね……赤ちゃん。ママが、だめで……」

もし、愛し合う両親に迎えられないのなら。

生まれないほうが、幸せなのかもしれない。

舞歌は苦く笑い、膝から崩れ落ちるように――闇に沈んだ。

――

次に目を開けたとき、眩い白い光が目に刺さった。

救急の病室。天井の照明が痛いほど明るい。

舞歌はベッドの上に横たわり、腕には点滴。顔色は紙みたいに青白い。

看護師が記録をつけながら、目覚めた舞歌に気づいて声をかけた。口調は厳しい。

「目が覚めましたね。……今回は運が良かったです。でも、次はありませんよ」

「……私の子……」

掠れた声が、喉の奥で途切れた。

看護師は小さく息を吐き、首を振る。

「安心してください。赤ちゃんは生きています」

「通りがかりの方が、道端で倒れているあなたを見つけました。血だらけで、みんな本当に驚いて……でも搬送が早かった」

看護師はカルテを見ながら続ける。

「ただ、かなりの出血でした。体力も落ちていますし、軽い脳震盪もあります。とにかく安静。刺激は絶対に避けてください」

舞歌は震える指で、そっと下腹に触れた。

――まだ、いる。

信じられないほどの奇跡に、涙が頬を伝った。

どれだけ、自分を見捨てられなかったのだろう。こんな、失敗だらけの母親なのに。

看護師も胸が詰まったように眉を寄せる。

「……どんな怪我だったんですか。ご家族は? 必要なら警察に連絡しますが」

舞歌は苦く笑い、ゆっくり首を振った。

千崎謙人の言う通りだ。千崎家の力の前で騒げば、傷つくのはきっと自分だ。

もう、心は折れている。争う気力もない。

時間が来たら、ただ消えるだけ。

「何も、いりません。ありがとうございます」

看護師はそれ以上踏み込まず、休むよう言い残して出ていこうとする。

舞歌はかすれた声で呼び止めた。

「……もし誰かがお見舞いに来ても。妊娠してることは、言わないでください」

看護師は不思議そうに目を瞬かせたが、すぐに頷いた。

「分かりました」

――

二日後。

千崎謙人が家に戻った。

二日も放っておけば、舞歌はいつものように俯いて、素直に謝る――そう思っていた。

だが玄関を開けた瞬間、目に入ったのは散らかったままの室内だった。

千崎謙人の表情が、一気に暗く沈む。

――いい度胸だ。

少し叱っただけだろう。そもそも悪いのは舞歌のほうだ。それなのに失踪までして、何のつもりだ。

彼はスマホを取り出し、秘書に電話をかける。

「今すぐ千崎舞歌の居場所を突き止めろ。生きてようが死んでようが、必ず連れて来い」

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