第5章 同情に値しない

千崎謙人が病院に姿を現したのは、一時間後のことだった。

千崎家の力があれば、栗原舞歌が国内にいる限り――たとえ地の果てへ逃げようと、見つけ出せる。

入院したと聞いた瞬間、千崎謙人は鼻で笑った。

あの日は、ちょっと言い合いになっただけだ。せいぜい、勢いで頭をぶつけた程度。

それが何だ。乃唯が受けた恐怖に比べれば、取るに足らない。入院だなんて大げさにもほどがある。

……大袈裟で、面倒くさい女だ。

どうせ、同情でも引こうとしてるんだろう。

千崎謙人は顔を陰らせたまま病室の前まで来ると、ドアノブに手をかけた。

そのとき、ちょうど巡回を終えた看護師が出てきて、彼を見上げる。訝しげな表情。

「どなたですか?」

千崎謙人は冷ややかに室内へ目をやり、短く答えた。

「夫だ」

そして、吐き捨てるように続ける。

「何がそんなに大騒ぎなんだ。入院まで必要か?」

「病院があいつの芝居に付き合ってるのか、それとも演技が上手すぎて、あんたらが騙されてるのか」

嘲るような言い方に、看護師の顔がかっと赤くなった。

「……失礼ですよ、旦那さま。奥さまは重い症状で入院が必要です。軽い脳震盪も起きていますし、それに――」

勢いのまま口を滑らせかけて、看護師ははっと息を呑む。危うく、患者さんが妊娠していることまで言いかけた。

言葉を飲み込み、看護師は唇を噛んだ。

――なるほど。だから、奥さまは隠したがったんだ。

こんな男に、子どもを産む価値なんてない。

「とにかく、奥さまを大事にしてください。十分すぎるほど、もう可哀想なんですから!」

そう言い捨てると、看護師は足早に去っていった。

千崎謙人は冷えた目でその背中を見送り、ドアを押し開けて病室に入る。

しん、と静まり返った室内。

ベッドの上で栗原舞歌はひどく痩せ、雪みたいな白い掛け布団に沈み込んでいた。片手だけが布団の外に出ていて、そこに点滴の針。医療テープの下、皮膚は青紫に変色している。

疲れ切っているのだろう。ここ数日、朦朧としたまま眠り続けていると聞いた。

千崎謙人がベッドサイドに立ち、底の見えない目で見下ろしても、舞歌は起きなかった。

何か悪い夢でも見ているのか、眉間がきゅっと寄り、不安そうに顔を歪める。

「……やだ……やめて……」

眠ったまま、か細い声が漏れた。

千崎謙人は黙ってそれを眺め、唇を結ぶ。

普段の自分なら、彼女に目を向けることすら億劫だった。そもそも、望んで選んだ妻じゃない。まともに正面から見たことなどなかった。

だが改めて見ると――痩せた。驚くほどに。

大学時代の栗原舞歌は、誰もが認める「学内一の美人」だった。眩しいほど華やかで、いつも朗らかに笑っていて、周囲を惹きつけて離さない。

それが、たった数年でどうしてこんなに。

美しさ自体は残っているのに、目元には深い倦み。頬はこけ、血の気はなく、唇まで不自然に白い。

――これ、本当に具合が悪いのか。

ふいに胸の奥が、訳の分からない柔らかさで満たされた。

千崎謙人はゆっくりと近づき、彼女のこめかみに落ちた細い髪を指でそっと払って、耳にかけてやる。

この数年、栗原舞歌は「千崎家の奥さま」として、それなりに務めを果たしてきた。

……あいつが、あんなふうに嫉妬深くなければ。

乃唯を目の敵にして、表と裏で顔を変えるような真似さえしなければ――ここまで拗れなかった。

江藤乃唯にしたことを思い出した瞬間、千崎謙人の顔からわずかな温度がすっと消える。

彼は勢いよく身を起こし、舞歌から距離を取った。瞳の奥が氷のように冷え固まる。

同情なんて、無駄だ。

……こんな女に。

栗原舞歌がぼんやりと目を開けた頃には、外はすっかり夜になっていた。

闇が窓の外からじわじわと病室を満たし、物の輪郭だけがうっすら浮かぶ。

ひとりきりの静けさに、舞歌の心は不思議なほど凪いでいた。

今となっては、千崎謙人たちとぶつかり合うより――こうして一人でいる時間のほうが、ずっと楽だ。

「起きたか」

突然、氷みたいに冷たい声が耳を刺す。

次の瞬間、ぱちんと灯りが点いた。

舞歌は声のほうへ目をやり、驚きが一瞬だけ走る。だがそれはすぐ、死んだような静けさに塗り潰された。

点滴はすでに終わっている。彼女は身体を起こし、ゆっくり座った。

「……どうして、ここに?」

千崎謙人は眉を上げ、当然だと言わんばかりに答える。

「お前は俺の妻だ。入院したなら、見舞いに来るのが普通だろ」

舞歌は苦く笑った。

――よかった。すぐに、もう妻じゃなくなる。

「心配しなくていいわ。ちょっと体調が悪いだけ。もう大丈夫だから、帰って」

千崎謙人の心配など、もう期待していない。

失望しすぎて、感覚はとうに麻痺していた。今さら差し出される優しさは、舞歌にとってむしろ厄介でしかない。

けれど――自分は、千崎謙人という男を買いかぶりすぎていた。

彼はソファにどかりと腰を下ろし、脚を組む。いつも通りの命令口調。

「医者から聞いた。軽い脳震盪だ。しばらく大人しく休め」

「それと、あとで乃唯が見舞いに来る。あいつは優しくて純粋だ。お前にいじめられたことも、もう気にしてない」

「だからお前も、くだらない意地を張るな。少しは学習しろ。そうすれば、今回のことは許してやる」

舞歌は信じられないという顔で見上げた。目の奥に浮かぶのは、乾いた嘲り。

――私が、くだらない意地?

むしろ今は、あんたたちから一秒でも遠ざかりたい。二度と顔も見たくない。

「江藤さんのご厚意はありがたいけど、来てもらう必要はないわ。あなたも帰って」

淡々と拒むと、千崎謙人はそれを「拗ねている」と受け取り、眉間に皺を刻んだ。

「お前は本当に器が小さいな。乃唯はお前のせいであんな目に遭ったのに、それでも見舞いに来ようとしてるんだぞ。少しは大人になれないのか」

言い返す間もなく、病室のドアがまた開いた。

「舞歌さん、謙人。ほら、持ってきたよ」

明るい声。江藤乃唯だった。手にしたフードコンテナを高く掲げ、軽く揺らしてみせる。

「私が煮たスープ! 病人はスープがいちばんって聞いたから、舞歌さんのために作ったの」

千崎謙人は心配そうに近づき、受け取ろうとする。

「なんでそんなことを。疲れただろ。使用人にやらせればいい」

江藤乃唯は、てへ、と舌先を見せるように笑った。

「たまには自分でやってみたくて。楽しいよ?」

「今回はいい。次は何をするにしても人に任せろ。お前が無理したら……俺が困る」

舞歌の睫毛がわずかに震え、指先が無意識にきゅっと握られた。

結婚して三年。

千崎謙人は「他人が家にいるのが嫌いだ」と言って、家事を一切入れなかった。広い別荘の掃除も洗濯も料理も、全部、舞歌ひとり。

しかも彼は軽い潔癖で、衛生面にうるさい。毎日朝5時に起きて、深夜まで動き回り、休むことも許されなかった。

それでも舞歌は、愛していたから耐えた。愛する人のために尽くすのは当然だと、疑いもしなかった。

――違ったんだ。

彼が「人を思いやれない」わけじゃない。思いやる相手が、私じゃないだけ。

どれほどやっても、腰が伸びなくなるほど疲れても、千崎謙人は一度だって振り向かなかった。

好きと、好きじゃない。その差は、こんなにも残酷だ。

江藤乃唯は、意気消沈した舞歌を横目で見て、千崎謙人の手からコンテナを取り返した。

「はいはい謙人。舞歌さん、きっとお腹すいてるよね。私がよそってあげる」

サイドテーブルに置き、蓋をくるりと開ける。

「舞歌さん。あなたのために作ったんだから、たくさん飲んでね」

舞歌は唇を動かし、小さく拒む。

「……ありがとう。でも、今は要らない。お腹、すいてないの」

「ダメだよ。病人は栄養つけなきゃ!」

千崎謙人も眉をしかめた。

「乃唯はお前みたいな主婦じゃない。普段キッチンに立たないのに、わざわざお前のために煮た。断るな」

舞歌は彼を見た。心が灰になっていく。

こんな世界があるのか。押し売りの善意で、拒否権すら与えられない世界が。

江藤乃唯が器によそった。

白く濁り、脂が浮き、どこか生臭い湯気が立つスープが、舞歌の目の前へ差し出される。

匂いだけで吐き気がこみ上げ、彼女は反射的に顔を背けた。だが、江藤乃唯の瞳に一瞬だけ光ったものには気づかない。

「さあ、舞歌さん。熱いうちに」

「やめて、いらな……」

舞歌が手で遮ろうとした、その瞬間。

江藤乃唯はふっと表情を鋭くし、手首をわざとらしくぐらりと傾けた。

次の瞬間、熱く脂っこいスープが――一椀まるごと、舞歌の身体にぶちまけられた——

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