第6章 払うことになる代償
「あっ……!」
激痛に、栗原舞歌の顔から血の気が引いた。堪えきれず、喉の奥から呻きが漏れる。
服地と皮膚がぴたりと貼りついて剥がれない。火傷の痛みは、針で刺されるような鋭さとは違う。じわじわと骨まで焼かれるみたいで、生きた心地がしなかった。
舞歌はベッドの上で身を丸め、ぶるぶると震え続ける……。
千崎謙人の足取りが乱れ、慌てて二人に駆け寄った。
「乃唯!」
彼は江藤乃唯をぐいと引き寄せ、親指に浮かぶ小さな赤みを見た途端、視線が氷のように冷たくなる。
江藤乃唯は涙目になって訴えた。
「謙人……痛い……」
「わ、私、料理が下手なのは分かってる。でも……それでも舞歌さんのために、一生懸命作ったのに……飲まないなら飲まないでいい、どうしてあんなこと……」
言えば言うほど悔しさが募ったのか、乃唯は謙人の胸に飛び込んで、しゃくり上げるように泣き出した。
「てめえ、死にたいのか!」
謙人は乃唯を腕の中に抱えたまま、怒りに任せて吼えた。
「乃唯の真心を、犬にでも食わせたみたいな真似しやがって!」
「火傷したのは……私」
舞歌の両手は震えが止まらない。みるみるうちに、皮膚の上に大きな水ぶくれが膨れ上がっていく。
「痛い……先生……」
額から豆粒みたいな汗が転げ落ちる。舞歌は必死に手を伸ばし、ベッド脇のナースコールを押そうとした。
その瞬間、謙人の瞳がきゅっと縮む。彼はすぐさま前に出て、舞歌の手を押さえつけた。
「痛い? 痛くて当然だ。乃唯を傷つけた代償だ」
吐き捨てるように言い、さらに声を荒げる。
「俺は何度もチャンスをやった。自分で無駄にしたんだろ。なら、こっちも遠慮しない」
「乃唯にはこの病院じゅうの医者を集めて診せる。絶対に、何事もないようにな」
言いながら、痛みにもがく舞歌へ視線を落とし――一瞬だけ、迷いの影がよぎった。
けれど次の瞬間、その表情はより硬く、冷たく固まる。
「お前は後回しだ。乃唯の全身検査が終わって、完全に問題なしと確認できたら……そのときが、てめえの番だからな」
そう言い残し、江藤乃唯を連れて病室を出ていく。
出る間際、入口に立つボディーガードへ命じた。
「見張れ。俺たちが戻るまで、医者も看護師も一人たりとも入れるな」
「承知しました」
廊下の気配が、ぷつりと途切れた。
舞歌の心が、また底まで落ちていく……。
もう何も感じないくらい、麻痺していると思っていた。
けれど千崎謙人は、平然と、何度でも境界線を踏み越えてくる。
――自分がどれだけ愚かで、どれだけ滑稽だったのか。
心のない、冷血な男を愛してしまった、その代償を、何度も何度も突きつけてくる。
涙が決壊し、頬を伝って止めどなく落ちた。
舞歌は激痛を堪えながら、ナースコールを何度も押す。震える指で、繰り返し、繰り返し。
やがて外から看護師の声が聞こえた。
「どうして止めるんですか! 患者さんが危険なんです、今すぐ入らせてください!」
「助けて……助けて!」
舞歌は力の限り叫ぶ。
「お願い……痛いの、ほんとに……助けて……!」
けれど耳に入るのは、扉の向こうの言い争いばかり。舞歌のために食い下がる医師や看護師の声が増えていくのに、状況は変わらない。
千崎謙人の命令がある限り、誰もこの扉を越えられない……。
時間がじりじりと過ぎていく。
どれほど待ったのか、もう分からない。痛みで全身が冷汗に濡れ、まるで水から引き上げられたみたいにぐっしょりだ。
何度気を失ったかも数えられない。落ちては戻り、戻っては落ちて――その果てに、ようやく扉が開いた。
医者と看護師がなだれ込み、舞歌の両手を見た瞬間、息を呑む声が上がる。
「なんでこんなひどい火傷に……!」
「早く処置を! 感染に気をつけて!」
忙しなく動く白衣の合間で、舞歌は荒く息をしながら、入口に立つ千崎謙人を見た。彼は江藤乃唯を腕で抱くように庇い、こちらを見下ろしている。
――乃唯が無事だと確認できたから、ようやく私を助けに来た。
そういうことだ。
この男に、愛する価値なんてない……。
一時間後、ようやく処置が終わった。
軟膏が塗られ、灼けるような感覚は少しだけ薄れた。それでも、耐え難い痛みは残ったまま。医者も看護師も、舞歌を見る目に同情が滲んでいる。
だが相手は千崎グループ。逆らえるはずがない。彼らにできることなど何もなかった。
医者と看護師が去った後、江藤乃唯がベッド脇へ歩み寄り、心配そうに尋ねる。
「舞歌さん、手……まだ痛い? さっきのことは、あなたも怪我したんだし……もういいよ。私、許してあげる!」
舞歌は怒るどころか、ふっと笑った。
「そう。わざわざどうも」
故意だろうが偶然だろうが、もうどうでもよかった。
責めたって、何になる?
千崎謙人は、江藤乃唯だけを信じる。自分が信じたい真実しか見ない。
言い争えば争うほど、待っているのは抑えつけと屈辱だけだ。
少なくとも、ここを出るまでは、静かに過ごしたい。誰にも邪魔されたくない。
けれど、その淡々とした態度が癇に障ったのか、謙人が冷たく叱りつける。
「悪いのはお前だろ。乃唯が大目に見てやってるのに、その態度は何だ」
「もう、謙人。やめて」
乃唯が柔らかく宥め、テーブルの上のリンゴに目を留めると、すぐに果物ナイフを手に取った。
「さっきのスープ……舞歌さん飲めなかったもんね。リンゴ、剥いてあげる」
刃が果肉へすっと入る。
「きゃっ!」
乃唯が小さく悲鳴を上げ、謙人が即座に手を掴む。
「どうした、指を切ったのか」
「ううん、ギリギリ……危なかった」
乃唯はほっとして首を振ったが、どこか落ち込んだ声になる。
「謙人、私ってやっぱり馬鹿だよね。リンゴ一つ剥けなくて、危うく自分を傷つけるところだった……でも舞歌さんに、何か食べてもらいたかったの」
謙人は乃唯の指をそっと撫でると、死人みたいにベッドに座ったままの舞歌へ冷たい視線を投げた。
無反応。その様子に苛立ちが募る。
「お前、粗いんだよ。怪我したらどうする。リンゴは――こいつに剥かせろ」
「え……?」
乃唯は驚いた顔で、心配そうに言う。
「でも……舞歌さん、火傷してるし、剥けないんじゃ……」
「火傷だろ。骨折じゃない。何ができない」
謙人は眉をきつく寄せ、ナイフを奪い取ると、ベッドの上へ投げ捨てた。
「そこにあるリンゴ、全部剥け。乃唯だってビタミンが必要なんだ」
舞歌は顔を上げ、謙人を見た。
「……本気?」
「何が本気だ」
「分かった」
拒まなかった。泣きわめきもしない。
ただ震える手で籠に触れ、もう片方の手で激痛を押し殺しながら、果物ナイフを握りしめる。
薄い皮を、少しずつ、少しずつ。
冷汗が噴き出しても、舞歌は何も言わなかった……。
謙人が望むなら、言うとおりにしていればいい。
そうすれば、早くこの二人から解放されるのだろうか。
だがその従順さ、麻痺したみたいな冷たさが、逆に謙人の神経を逆撫でする。
胸の奥で怒りが暴れ回り、謙人は鼻で嗤った。
「お前にできるのは、人に仕えることだけだ。俺に食わせてもらってるくせに、逆らう資格があると思うな」
そして、容赦なく言い放つ。
「舞歌、この先の人生でも、お前が乃唯の髪の毛一本に勝てることはない」
