第7章 我慢ならない罵り
耳をつんざく罵声が、途切れることなく降り注ぐ。栗原舞歌なら、本来は怒りと悔しさで胸がいっぱいになっているはずだった。
けれど彼女の内側には、何の感情も湧かなかった。
ベッドの上に静かに座り、果物ナイフを握る手だけが小刻みに震えている。冷や汗がこめかみを伝い、頬へと落ちていく。
歯を食いしばって耐えていても、刃先が指の腹をかすめた。
ぱっと裂けた小さな傷口から、鮮やかな赤が一気に溢れ出す。布団に落ちた雫は、やけに目に刺さる色をしていた……。
それでも舞歌は声を上げない。顔色は死人のように灰色だ。
まるで命の入っていない人形。外界を感じ取る回路だけが、ぷつりと断たれてしまったかのように。
千崎謙人は視線を落とし、抗えずに彼女の両腕へ目を吸い寄せられた。
巻きたてのガーゼは、血と滲出液で淡い桃色に染まっている。手首には、彼が掴んだせいで浮かんだ青紫の痣――新しい傷が古い傷に重なって、見ているだけで胸の奥がきゅっと締まった。
……ほんの僅か、言葉にしない痛みを感じてしまう。
だが次の瞬間、舞歌の麻痺したような冷たさが、その気配を一息で消し去った。
言い返さない。泣きもしない。彼のほうを一度だって見ない。まるで、自分も江藤乃唯も、取るに足らない空気だと言わんばかりに。
その徹底した無視は、泣き叫ぶ詰問よりも謙人を苛立たせた。
「リンゴひとつ、まともに剥けないのか」
口元を歪め、棘のある声で吐き捨てる。
「こんなに不器用じゃ、家に残って雑用するしかないよな。何年経っても、結局なにも成し遂げられない」
言いながらも、視線は勝手に流血する指先へ逸れる。喉仏が、わずかに上下した。
冷笑の形を借りたその言い方は、むしろ焦りの裏返しに聞こえた。
その隣で、江藤乃唯は彼の反応を余さず見ていた。
胸の奥で警報が鳴る。
まずい。口ではあれほど罵っているのに、無意識の注意は誤魔化せない。――謙人の心の深いところに、まだこの女への名残がある。
乃唯は舞歌へ冷たい視線を向け、瞳の奥に一瞬だけ凶い光を走らせた。
だめ。もっと徹底的に。二人の間に残っている、最後の可能性ごと断ち切らないと……。
「舞歌さん、どうして何も言わないんですか……やっぱり、まだ私のこと怒ってますよね」
乃唯はふっと身体の力を抜き、膝を折って――土下座しそうな体勢になる。
けれど床に触れる寸前、ぴたりと止めた。半端に膝をついたまま、謙人のズボンの裾を両手でぎゅっと掴む。
涙がぽろぽろと零れ落ち、声はしゃくり上がった。
「謙人……私、すごくつらい。舞歌さん、やっぱり私のこと恨んでる……私がここにいたら、舞歌さんももっと苦しいし、あなたのことも困らせちゃう……」
「舞歌さんの気持ちが少しでも晴れるなら、私……ここで土下座して謝ってもいい」
わざと身体をさらに低くする。スカートの裾が床をなで、次の瞬間には本当に額を擦りつけそうな、卑屈で哀れな姿。
「謙人……私、あなたたちに申し訳ない。……もしかしたら、私、帰ってくるべきじゃなかったのかも」
謙人は視線を落とし、涙に濡れた乃唯の顔を見て、次いで――相変わらず無表情でリンゴを剥き続ける舞歌を見た。
怒りが、階段を一段ずつ上がるみたいに膨れ上がる。
両手を強く握り、声を低く沈めた。
「舞歌、お前、乃唯をどこまで追い込むんだ」
「土下座までしようとしてるのに、ひと言も柔らかい言葉が言えないのか? どこまで人を追い詰めれば気が済む!」
舞歌は顔を上げない。だが彼の灼けるような視線が、肌を穿つほど刺さっているのは分かった。
それでも言葉は出ない。
争いたくない。説明する気力も、もう残っていない。
三年間積み上がった理不尽と傷。愛する者と愛される者の、あまりにも残酷な差。それが、彼女の精も根も、とうに擦り切れさせていた。
ただ静かに傷を癒して、身体が戻ったら出ていく。二度と、この人たちに関わらない――それだけでいい。
「おい、黙ってるな! 怪我してるのは手だろ、耳まで潰れたのか? それとも口が利けなくなったか!」
謙人は額に青筋を浮かべ、怒鳴りつけた。
「……強要してない」
舞歌がようやく口を開く。掠れた声。疲れが滲んでいる。
「演じたいなら、勝手にすればいい」
「リンゴを食べるなら、待って。食べないなら……出ていって。休みたいの」
「演じてる?」
謙人は眉間に深い皺を刻み、声が冷たく尖る。
「乃唯がどんな人間か、俺のほうが知ってる。お前の態度が酷いから、あいつがあんなに苦しんでるんだ」
「謝れ」
剥き続けようとする舞歌の手を止めさせるように、謙人は伸ばした手で彼女の手首を掴んだ。
力はそれほど強くない。だが、拒む余地のない強引さがある。
「今すぐ乃唯に謝れ。それで終わりだ。お前は千崎家の奥様だろ、少しは器を見せろ」
――彼は忘れていた。舞歌は、すでに傷を負っていることを。
ほんの少しの圧でも、血は手首から伝い落ち、薄い病衣をじわじわと濡らしていく……。
舞歌は痛みに顔色を失したが、視線だけは逸らさなかった。
「私、悪くない。謝らない」
その言葉が、火に油を注いだ。
「話にならない!」
謙人は歯を食いしばる。
「乃唯は善意で見舞いに来たのに、お前は侮辱して、挙げ句にあいつが謝る羽目になってる。よく平気でいられるな!」
手のひらのぬめりを感じていないかのように、掴む力が徐々に強くなる。瞳には露骨な嫌悪。
「俺、今まで気づかなかったわ。お前って、こんなに狭量で、正義面して人を追い詰めるタイプだったのか」
そして謙人は、彼女の怪我など意にも介さず、ベッドから乱暴に引き起こし――床へ投げるように突き放した。
「最後に言う。今すぐ乃唯に謝れ!」
舞歌は身構える暇もない。足元がもつれ、どさりと床に叩きつけられた。
火傷の手が硬い床にぶつかり、眩暈がするほどの痛みが走る。歯がかちかちと鳴り、身体が勝手に震えた。
痛い。……痛い。
出ていくために、彼の冷たさも侮辱も耐えた。乃唯の挑発だって、何度だって飲み込んできた。
自分さえ引けば、残りかすみたいな平穏が手に入ると思っていた。
なのに、彼らは一歩も引かない。彼女が静かに去る、その最後の望みすら奪い取ろうとする。
――もう、いい。
その瞬間、理性という名の糸がぷつりと切れた。
舞歌は顔を上げる。瞳から麻痺が消え、残ったのは、極限の怒りと絶望だけ。
「千崎謙人! 目も心も腐ってる!」
「乃唯は土下座のふりをしただけ! 膝、床に一度でもつけた? 半端に止まって演技してただけじゃない! それが私と何の関係があるの、なんで私が謝らなきゃいけないの!」
「……何だと?」
謙人は呆然とする。舞歌が自分を罵るなんて、想像したこともなかった。
だが舞歌の怒りは、まだ収まらない。
「私はずっと、あなたに全部捧げた。言い返さず、耐えて、従って……それなのに、私の気持ちをゴミみたいに扱った!」
「あなたが江藤乃唯を好きなのは、結婚に対する裏切りでしょう。それなのに何度も私を辱めて、傷つけて、挙げ句の果てに彼女に謝れって? どうして? 何様のつもり!」
舞歌は低く唸るように吐き出し、病床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
身体は今にも崩れそうなのに、目だけが異様にまっすぐで、揺るがない。
「もう、うんざり!」
「出ていけ。二人とも、今すぐ出ていけ!」
「私の目の前から、消えて! もう二度と、あなたたちの顔なんて見たくない!」
謙人は、突然の爆発にその場で固まった。
長い付き合いの中で、舞歌はいつだって従順だった。悔しくて泣いたことはあっても、こんな鋭い声で自分に刃を向けたことはない。
怒りは一気に燃え上がった。だが同時に、彼女の瞳に宿る――すべてを捨てるような絶望が、なぜか胸をざわつかせる。
言葉が出ない。
一瞬、呼吸すら忘れてしまった。
