第8章 離婚したくない
部屋の中で飛び交う激しい言い争いは、ついに当直医と看護師の耳にも届いた。
火傷の件もあって、彼らはもともと栗原舞歌に同情的だった。だからこそ今は躊躇もなく、制止を振り切るように病室へ踏み込んでくる。
目に飛び込んだ光景に、二人は息を呑んだ。――栗原舞歌の手首から、止めどなく血が落ちている。
看護師の表情が、一気に怒りへ変わった。
「ちょっとあんたたち、患者さんは安静が必要です。どうしてこんなことを……。今すぐ出てください!」
江藤乃唯は慌てて床から立ち上がり、涙を拭って、いかにも傷ついたような声を絞り出す。
「すみません、私たち、わざとじゃなくて……ただ――」
「言い訳は結構です。出てください!」
看護師は一歩も引かなかった。千崎謙人と江藤乃唯の腕を掴むと、そのまま強引に廊下へ押し出す。
「これ以上居座るなら通報します!」
バタン、と乾いた音。扉が容赦なく閉まり、病室の内と外は、いまや交わらない二つの世界になった。
――
病室の前。江藤乃唯は千崎謙人の胸に縋りつく。
肩を小刻みに震わせ、泣き声混じりに訊ねた。
「謙人……舞歌さんって、私のこと、本当に嫌いなんでしょうか」
千崎謙人は背中を軽く叩き、あやすように言う。
「嫌うわけがない。嫌う資格もない」
「でも……私のせいで、あなたたちの夫婦関係が壊れるのは嫌。謙人が困るのも見たくないの」
江藤乃唯は彼のシャツをきつく掴む。怯えた顔のまま、嗚咽を飲み込んだ。
「もし私のせいで舞歌さんが離婚したいとか言い出したら……私、取り返しがつかない……!」
「離婚」
その二文字が出た瞬間、千崎謙人の眉間がきつく寄った。胸の奥に、理由のわからない苛立ちが跳ね上がる。
栗原舞歌は自分の「いい選択」ではない。結婚して三年、彼は一日も彼女を愛したことがない。離婚など、むしろ当然の流れ――そう思っていたはずなのに。
いざ乃唯の口から出た途端、どうにも気分が悪い。
まるで、その言葉を口にした瞬間に、何か大事なものがこぼれ落ちてしまうみたいで。
「変なこと考えるな」
千崎謙人は低い声で宥めた。どこか硬い響きを隠しきれないまま。
「俺は彼女とは離婚しない。家も簡単には許さない。安心しろ……あいつは、ちゃんと大人しくさせる」
江藤乃唯の瞳の奥で、悔しさが一瞬だけひらめいた。
――やっぱり。
千崎謙人は栗原舞歌に無関心なふりをしているだけで、結局、心のどこかで彼女を捨てきれていない。
試しに「離婚」と言っただけで、こんなに揺れるなんて。
あの女の、どこがいいの。
愛しているのは、本当は自分のはずなのに。
それでも江藤乃唯は、今は従順に頷いた。顔を彼の胸に埋め、小さくすすり上げる。
――誰も気づかない。
その瞳の底に、鋭い光が差したことを。
次の一手を、もう組み立て始めていることを。
千崎謙人は、最初から最後まで彼女のものだ。
……
数日後。栗原舞歌は再検査を受けた。
病室で医師が重い顔のまま告げる。
「栗原さん、帰宅してからは徹底して休んでください。このまま無理をしたら、お腹の子は持ちません」
栗原舞歌は苦く笑い、平らな下腹をそっと撫でた。視線は虚ろだ。
「この子……もともと、残すつもりはありませんでした」
医師は一瞬言葉を失ったが、先日の病室の騒動を思い出したのだろう、すぐに表情を引き締める。
「……それでも中絶はできません」
重さは増すばかりだった。
「あなたの体は弱りすぎています。外傷と失血もありますし、今の状態で手術は絶対に無理です。薬も同じ。後遺症が残る可能性が高い。最悪、大出血で命に関わります」
「どうしても望まないなら、まずは回復を優先して。条件が整ってから、改めて考えましょう」
栗原舞歌は反論しなかった。淡々と退院の手続きを済ませ、タクシーで、かつて「家」だと思っていた別荘へ戻る。
扉を開けた瞬間、リビングの光景が目に突き刺さった。
ここは、彼女の家のはずなのに。
江藤乃唯がソファに丸まり、千崎謙人の上着を羽織ってテレビを見ている。千崎謙人はその隣で、皮を剥いたリンゴを手にし、丁寧に口元へ運んでいた。
その眼差しの甘さ。やわらかな執着。――栗原舞歌が、一度も与えられなかったもの。
物音に気づき、千崎謙人が反射的に顔を上げる。
玄関に立つ栗原舞歌。逆光の中、痩せた輪郭だけが浮かび上がる。その姿を見た瞬間、千崎謙人の胸に、言いようのない後ろめたさが走った。
「……帰ってきたのか。体は、どうだ」
「平気」
栗原舞歌は淡い声で返し、露骨な裏切りなど見えていないかのように、階段へ向かう。
今はただ、静かな場所がほしかった。体が戻ったら、きっぱりこの泥沼から抜け出す。それだけ。
背後で、千崎謙人が彼女の微動だにしない背中を見つめる。苛立ちがじわりと滲んだ。
本当は説明するつもりだった。乃唯は本当に住む場所がなくて、しばらくの間だけで――と。
だが、この「どうでもいい」みたいな態度が、どうにも癪に障る。
「舞歌!」
堪えきれず、千崎謙人が呼び止めた。
「何か聞くことはないのか?」
栗原舞歌は足を止め、振り返る。
凪いだ瞳。底の見えない水面みたいに、何も映さない。
「ない」
「好きにすればいい。ただ、声は小さめにして。休みたいの」
それだけ言うと、彼女は踵を返して二階へ上がった。
扉が閉まる。
外の喧噪も、悪意も、そこで完全に遮断された。
――
千崎謙人は、閉ざされた扉を睨みつける。怒りが、どんどん燃え上がっていく。
なぜだ。どうして、急にこんなにも冷たい。
昔の栗原舞歌は、黙っていても目の奥に「悔しさ」や「期待」が残っていた。なのに今は――まるで他人を見る目だ。
その落差が、千崎謙人を訳もなくざわつかせた。
江藤乃唯はその機微を察し、そっと彼の腕に絡みつく。
「謙人、怒らないで。舞歌さん、退院したばかりだし……休ませてあげよ?」
千崎謙人は不機嫌なまま、短く頷いた。
江藤乃唯は、舞歌が消えた階段を見つめ、内心では笑っていた。
いい。ずっと、その死んだ魚みたいな顔でいればいい。
――ちょうど、新しい案が浮かんだところだ。
……
いつの間にか夜が落ちた。
栗原舞歌は戻ってから一度も部屋を出てこない。
夕食の時間、千崎謙人は本来なら彼女に作らせるつもりだったが、どうせ拒むだろうと踏んで、結局デリバリーで済ませた。
気づけば深夜。
広い別荘はしんと静まり返り、千崎謙人は仕事を片づけると寝室へ向かった。
まだ灯りも点けないうちに、背後から、柔らかい腕が胸元に絡みついた。指先がぬるりと這い、艶めいた撫で方で肌を探る。
千崎謙人が息を詰めた、その瞬間。
一方の手が弱点を探るようにくすぐり、もう一方がゆっくりと下へ――ズボン越しに、秘めた場所を撫でてくる。
「謙人……」
聞き慣れた声に、千崎謙人はようやく我に返った。慌てて距離を取り、灯りを点ける。
白い光が容赦なく照らし出す。
江藤乃唯の姿を見た瞬間、千崎謙人は目を見開いた。
「乃唯……お前、なんでそんな格好……!」
いつもの清楚さはない。彼女はわざとらしいほど艶のあるキャミソールを身につけていた。というより、下着に近い。
薄い布はほとんど隠す力を持たず、体の輪郭と熱がそのまま浮き出る。胸元は呼吸に合わせて小さく揺れ、視線を吸い寄せた。
しかも、下は何も身につけていないのだろう。脚をそっと揃える仕草が、かえって無垢と誘惑を混ぜ合わせる。
江藤乃唯の頬は赤く、声は甘く柔らかい。けれど、絡みつくように艶を含んでいた。
「謙人……ひとりで寝るの、ちょっと怖くて。今夜、一緒に寝てもいい?」
