第9章 俺たちはこれでチャラだ

江藤乃唯と知り合ってから、もう何年になるだろう。

彼女は千崎謙人の胸の奥で、ずっと手の届かない――高嶺の花だった。

好きだ。いつか一緒になれたら、と夢見たこともある。

ただし、まさかそれが自分の家で起きるなんて、思いもしなかった。

しかも、本当の妻は――隣の部屋で眠っている。

拒まないということは、受け入れたということ。

乃唯はぱっと顔を輝かせ、すぐに彼へ身を寄せてきた。

柔らかな胸元が押しつぶされ、もともと胸の開いたネグリジェから溢れそうになる。濃い谷間。甘い匂いが、息をするたび鼻腔の奥まで入り込んでくる。

「謙人……私のこと、すごく好きなんでしょ?」

「よかった。私も、あなたが好き」

媚びるように艶のある声。手も落ち着かず、またゆっくりと彼の股間を撫で上げ、熱を呼び起こそうとする。

「好き同士が一緒になるのって、当たり前じゃない?」

世間知らずで、純粋で、善良――そんな彼女が、こんな誘い方を知っているはずがない。

なのに、乃唯は知っていた。それも、ひどく手慣れている。

指先に弄ばれ、股間がじわじわと硬くなっていく……。

だが、理性が溶けかけた瞬間、謙人は反射的に彼女を押し退けていた。

誘われれば揺れる。これはかつて、夢にまで見た相手だ。

それでも――栗原舞歌の、あの死んだような表情が脳裏をよぎると、胸の奥に薄い拒絶が生まれた。

まして、今この瞬間も彼女は隣の部屋にいる。そう思うだけで、皮膚の上を何かが這うように落ち着かない。

「謙人……?」

乃唯が、わけが分からないといった声を漏らす。

「俺たちは……こうしちゃいけない」

謙人は息を吐き、揺るがない声で告げた。

「乃唯。冷静になろう。運転手に頼む。ホテルに送らせる」

「やだ! 謙人、私のこと、好きじゃないの?」

乃唯の顔色がさっと引き、責めるように言う。

「いいから、言うことを聞け」

反論の隙を与えず、謙人は運転手へ電話をかけた。

「服、ちゃんと着ろ。次から男の前で勝手に脱ぐな。安っぽく見える」

その一言で、乃唯は恥辱に染まり、今すぐその場から消え去りたいと言わんばかりの顔になった。

――三十分後。運転手が門の前まで来た。

謙人は自ら、身体をきっちり包み、青ざめた乃唯を玄関まで送り出す。

車が走り去るのを見届けてから、彼は別荘へ戻った。

一階を抜け、二階の廊下へ。

気づけば足が止まっていた。舞歌の部屋の前で。

言いたいことなら山ほどある。

乃唯が好きなのは事実だが、浮気なんてしていない。肉体関係だってない。

ただ、若い頃のときめきを――埋め合わせたかっただけだ。

舞歌が執拗に噛みついてこなければ、息もできないほど追い詰めてこなければ、こんなふうにこじれただろうか。

あんな、刃を突きつけ合うみたいな関係に――。

迷った末、ドアノブを下げた。

鍵はかかっていない。

押し開けると、部屋は真っ暗だった。

謙人は眉をひそめ、すぐに灯りをつける。

……誰もいない。

ベッドの布団はきっちり整えられ、まるで最初から人がいなかったみたいに、静かで冷たい。

舞歌は?

ずっと部屋にいるはずじゃ――いつ出ていった。どこへ?

今まで味わったことのない恐慌が、喉元まで一気にせり上がった。

謙人はスマホを取り出し、舞歌へ電話をかけようとして――その前に、一本の通知が入った。

ホテルの予約確認。

宿泊者、栗原舞歌。

……この女、家出して、ホテルに泊まってるのか?

羞恥と怒りと、正体の知れない不安がないまぜになり、謙人の理性を一瞬で吹き飛ばした。

いいだろう。俺の目を盗んで抜け出して、しかも部屋にいるよう偽装までして。

俺が探しに来なければ、予約通知が俺のスマホに届かなければ――どこにいるかすら分からなかった。

急に冷たくなったのも、もしかして。

もう別の男と――だから早く出ていきたかったんじゃないのか?

額に青筋が浮き、謙人はそのまま車を出した。

――三十分後。

ホテルの部屋のドアが開く。

バスルームからは、しゃあしゃあと水音。舞歌はシャワー中らしい。

謙人は声をかけず、部屋の中を見回した。

シングルの簡素な部屋。豪華どころか、拍子抜けするほど普通だ。

隅に小さなスーツケースがひとつ。中には着替えが数着、整然と畳まれている。

三度見回しても、男の痕跡は見当たらない。

……なぜか、胸がふっと緩んだ。

そのとき、水音がぴたりと止まる。

浴室のドアが開き、舞歌が出てくる。

謙人が部屋にいるのを見ても、驚きは一切ない。

「……どうして来たの?」

「なんで、ここに泊まってる」

謙人は眉間を深く寄せた。

「家の何が不満だ。――それとも、ここで男を待ってるのか?」

舞歌は、冗談でも聞いたみたいに口の端をつり上げる。冷えた嘲笑だった。

「千崎謙人。誰もがあなたみたいに汚くないの」

「うるさすぎて、眠れなかっただけ」

「……お前!」

怒りがこみ上げ、血が逆流する。

言い返そうとして――視線が、舞歌の身体に吸い寄せられた。

風呂上がり。腰にバスタオル一枚。

華奢な肩がむき出しで、濡れた髪が背に落ちる。雫が鎖骨を伝い、ゆっくりと谷間の陰へ消えていく。

さっきまで乃唯がどれだけ媚びても、こんなふうに心臓を掴まれることはなかった。

舞歌の方が――よほど、胸の奥をざわつかせる。

愛しているかは別だ。

だが男には生理がある。二人は夫婦で、夜も重ねてきた。

舞歌は細いくせに、曲線だけは不思議と豊かだ。

手のひらに収めて揉みしだく感触。綿みたいに柔らかい、あの重み。

下で喘がせ、赤く上気した顔で泣きながら縋らせる――そんな映像が、勝手に脳内へ差し込んでくる。

矛盾しているのは分かっている。

だが、荒い情事で片をつければいい、とも思ってしまった。

謙人の目に欲が滲み、ゆっくりと舞歌へ歩み寄る。

「拗ねるのもいい加減にしろ。今日は許す。俺もここに泊まる。明日帰って、ちゃんとやり直す」

言い終わるや、細い腰を抱き寄せる。

舞歌が反応する前に、ベッドへ押し倒した。

「乃唯に嫉妬して、何がしたい?」

「俺が、あいつとお前みたいに親密になると思うか? なあ?」

そう囁きながら、バスタオルを乱暴に引き剥がす。

舞歌の白い身体が、薄暗い照明の下で艶めいた。

胸元の柔らかな膨らみ。

謙人の視線は深く沈み、掌が遠慮なく揉み込む。指の隙間から肉が溢れ、形が崩れていく。

もう片方の手はゆっくり下へ。秘部を探り当てる。

「やめて!」

舞歌がはっと目を覚ましたように叫び、押し返そうとする。

結婚して三年。夜の回数は多くなかった。

ほとんどが、彼の欲を吐き出すためで、自分は玩具みたいに扱われるだけだった。

それでも、愛していたから受け入れてきた。

でも、今は違う。

もう、愛していない。

さっきまで乃唯を抱けた男が、次の瞬間、自分にこんなことをする。

その事実だけで、吐き気がした。

「いや……放して。近寄らないで!」

舞歌は激しくもがく。だが男の力には敵わない。

指先で弄られるたび、身体が勝手に反応していく。下腹の奥が熱を帯び、湿り気が増す。

抗えない生理反応が、羞恥で喉を焼いた。

謙人はその変化に気づき、鼻で笑う。

「ほらな。女の『嫌』は『して』だ」

「口だけ強がって、身体は正直だ。もう入れてほしいんだろ?」

舞歌の目が赤く滲む。

「千崎謙人……最低。出ていけ。あなた、やってることはレイプよ!」

「レイプ? 夫婦の義務を果たさせているだけだ」

十分に濡れたと感じたのか、謙人は舞歌の脚を持ち上げ、膝をついて正面に陣取った。

チャックを下ろし、張り詰めたそれを解放する。

硬く脈打つ熱が、じりじりと近づく。

もう少しで、挿し込まれる。

舞歌の全身が拒絶を叫んだ。

嫌だ。絶対に、もうこの男と何ひとつ繋がりたくない。

「やめてって言ってる! 触らないで!」

ぱんっ!

怒号と一緒に、平手打ちが謙人の頬に叩きつけられた。

舞歌は必死で暴れ、彼の下から逃げようとする。

謙人は頬を押さえ、信じられない顔で固まった。

「俺としたくないからって、殴るのか? 頭おかしいのか!」

「だったら今日は、絶対にやる!」

足首を掴み、無理やり押さえつける。

腰を突き出し、押し込もうとして――。

舞歌は泣き叫びながら両手を振り回した。

何度も試しても上手く入らず、謙人の感情が決壊する。

「クズ……! お前なんか、別に欲しくもねえ!」

彼は起き上がり、乱暴に腕を引いて――舞歌を床へ叩きつけた。

どん、と鈍い音。

怒りが引いていくのと同時に、謙人は荒い息を吐き、倒れた舞歌へ手を伸ばしかけた。

抱き起こして、続きに――そう思った、その瞬間。

舞歌の脚の間から、血が流れていた。

床へ、じわじわと広がっていく。

謙人は凍りついた。

頭の中が真っ白になる。

欲も怒りも、すべて恐怖に塗り潰される。

駆け寄って支えようとして――舞歌の目が、彼を釘付けにした。

凄絶で、恨みに満ちた眼差し。

舞歌の顔は蒼白で、もう何も残っていない灰みたいだった。

長い沈黙の末、彼女はふっと笑った。

解放の笑み。底なしの絶望を孕んだまま。

「千崎謙人……これで、ほんとうに終わりね……私たち、もう……何も残ってない」

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