第1章

アデラ視点

「離婚しましょう」

 退院したその日、私は署名済みの離婚届をマッシモの目の前に滑らせた。

 マッシモはコーヒーカップを口元へ運ぼうとしていた手を、空中で止めた。顔を上げると、その深灰色の瞳に驚愕の色が走る。

「なんだと?」

「離婚よ」私は淡々と繰り返す。「クラウディアが明後日、退院してくるのでしょう?」

 彼は離婚届に記された私の署名をじっと見つめ、喉仏を上下させた。やがてペンを取り上げると、手慣れた様子で自身の名を書き込んでいく。

 クラウディアは、彼にとっての高嶺の花だ。

 七年前、彼を救うために敵対組織に拉致され、酷い虐待を受けた末に頭部に重傷を負った。医師からは「いかなる刺激も与えてはならない、さもなくば命に関わる」と宣告されている。だから彼女がスイスの療養所から戻ってくるたびに、私たちは離婚しなければならないのだ。

 これで、三十三回目になる。

「アデラ、今日の君は聞き分けがいいな」

 マッシモは書類をファイルに挟み込み、満足げに頷いた。

「ようやく理解したようじゃないか」

 私は伏し目がちに沈黙を守ったまま、結婚指輪を外して彼の前に置いた。

 マッシモの笑みが凍りつく。

「指輪は持っておけ」

「クラウディアへの刺激になりますから。外したほうがいいわ」

 彼の表情が、瞬時に曇った。

 十五回目の離婚の時だ。指輪を嵌めたままの私を見たクラウディアが、その場で卒倒したことがあった。マッシモは激昂し、私が故意に彼女を刺激したのだと決めつけた。彼は私を雨の中へ引きずり出し、屋敷の外で彼女への謝罪を強要して跪かせたのだ。一晩中雨に打たれ続けた私は、高熱を出して脳が焼き切れる寸前まで追い込まれた。

「好きにしろ」

 マッシモは忌々しげに指輪を引き出しへ放り込んだ。

 私は背を向け、クローゼットで荷造りを始めた。

 指先が衣服に触れた瞬間、不意に強烈な麻痺感覚に襲われた——この数年間、私はまるで根無し草の放浪者のように、この屋敷を三十二回も出入りしている。その都度「これが最後かもしれない」と思い、同時に「また戻れる」という淡い期待も抱いていた。

 けれど今は、ただ疲れだけを感じる。

「アデラ」

 マッシモの声に苛立ちが混じる。

「聞いているのか?」

「ええ」

 私は顔も上げず、黙々と服を畳み続ける。

「三週間後にクラウディアがスイスへ戻れば、すぐに再婚手続きをする」

 彼は寝室のドアまで歩み寄ると、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「どこへ行くつもりだ?」

「エリーゼのところへ」

「友人の?」マッシモの声に警戒心が宿る。「期間は?」

「三週間よ」

 スーツケースのファスナーを閉め、私は振り返って彼を見据えた。

「クラウディアがスイスへ戻るのを待つのでしょう?」

 彼は目を細め、値踏みするように私の顔をじろりと眺めた。

「いいか、妙な気は起こすなよ。昔みたいに発狂するのは御免だ」

 私は彼を見つめ返した。

 五年前、ホテルの壁際に私を追い詰め、低い声で「俺の妻になれ、望むものは何でも与えてやる」と囁いた男。あの時、彼の瞳には確かに熱が宿っていて、私は自分が本当に必要とされているのだと錯覚した。

 だが今の彼の瞳にあるのは、警戒と不寛容だけだ。

「安心して」私は小声で告げる。「お二人の邪魔はしないわ」

 マッシモは数秒間私を凝視していたが、やがて表情を緩めた。

「ならいい。クラウディアがスイスへ戻ったら埋め合わせをしてやる。前回約束したネックレスだが——」

「いらないわ」

 私は彼の言葉を遮った。

 マッシモが眉を寄せ、鋭い視線を向けてくる。

「どういう意味だ?」

「いらないと言ったの」

 私は彼を見た。胸の奥にあるはずの場所が空っぽで、何も響かない。

「埋め合わせなんて、必要ないもの」

「アデラ」彼の声が低くなり、顎のラインが強張る。「また駄々をこねるつもりか?」

「そんなことないわ」

「じゃあなんだ、その態度は」彼は一歩踏み出し、威圧する。「あの日、俺がクラウディアを選んだことをまだ根に持っているのか?」

 彼を見つめる私の喉の奥に、苦いものが込み上げてくる。

 流産して以来、彼は一度たりとも「痛かったか」「辛くないか」と聞いてはくれなかった。ただひたすら、なぜクラウディアを選ばざるを得なかったのかを弁解するばかり。まるで理由さえ正当なら、子供を失った悲しみなど感じるべきではないとでも言うように。

「それに、あの子供だって——」彼は言葉を切り、冷酷な響きを声に乗せた。「わざと妊娠したことくらい、気づいてないとでも思ったか? 子供をダシに俺を繋ぎ止めようなんて……アデラ、君の浅はかな小細工などお見通しなんだよ」

 心臓が、ぎゅっと収縮した。

「あなたの言う通りね」

 私は囁くように言い、スーツケースを持ち上げて背を向けた。

「私が不運だっただけだわ」

 背後から呼ぶ声を無視し、私はそのまま部屋を出た。

 車が屋敷を離れていく。

 バックミラー越しに、遠ざかる建物を最後にもう一度だけ見た——陽光を浴びるその姿は、おとぎ話に出てくる城のように美しい。けれど私にとって、あそこは五年もの間私を閉じ込めていた牢獄だった。

 胸に開いた空洞が、誰かに抉られたように広がっていく。

 けれど、もう痛みはない。

 あまりに長く痛みすぎたせいで、心が麻痺してしまったのかもしれない。

 私は携帯電話を取り出し、一度も登録したことのない番号を指でなぞった。

 コール三回。電話が繋がる。

 受話器の向こうから低い呼吸音が聞こえてくるが、言葉はない。

 私はイタリア語に切り替え、聞き取れるかどうかの低い声で呟いた。

「お父さん……」

 沈黙。

 ただ、電話の向こうの微かな呼吸音だけが耳に届く。

「私よ」

 窓の外を流れる街並みを見つめると、不意に目頭が熱くなった。

「……家に、帰りたいの」

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