第2章
「もちろん、すぐ行くわ!」
そう返事をすると、私は慌てて道端へ駆け出し、必死にタクシーを捕まえた。
運転手は白髪頭の老人で、バックミラー越しに心配そうにこちらを一瞥した。
「家庭裁判所までお願いします」
車が交通の流れに合流する。車窓から見慣れた東京の街並みを眺めていると、心臓が太鼓のように鳴り響いた。
本当に、覚悟はできているのだろうか? 十三年間の想いに、こうして終止符を打ってしまうなんて。
タクシーが家庭裁判所の前に停まると、すぐに正典の姿を見つけた。
彼はチャコールグレーのスーツに身を包み、低い声で電話をかけている。その姿は真剣で、どこか見知らぬ人のようだった。そのスーツは新品だ。私が見たことのないもの。
きっと、あの鸟山美子に会うためにわざわざ新調したのだろう。
私は苦笑しながらタクシー代を払い、自分に言い聞かせた。もう離婚するのだから、彼が何を着ていようと気にする必要はない、と。
「あと三十分で昼休みだ」
正典は私に気づくと、電話を切ってそう言った。
私は頷き、入り口へと歩き出す。その門をくぐる直前、正典が不意に問いかけた。
「本当に決めたのか?」
「決めたわ。ずっとずっと、考えてきたことだから」
ほとんど条件反射で答えていた。
正典は私の返答の速さが明らかに不満だったようで、フンと鼻を鳴らすと、大股で建物の中へ入っていった。
調停室は想像していたよりも簡素で、乳白色の壁には調停手続きのフローチャートが掛けられている。私の結婚生活の終焉を見届けることになるこの場所を物珍しそうに眺めていると、ふと非現実的な感覚に襲われた。
正典がブリーフケースから数枚の紙を取り出した。「昨夜お前が要求した郊外のマンションの他に、貯金から一千万円を分与する」
私はその条項にほとんど目もくれずにペンを手に取り、申立書に自分の名前を書き込んだ。正典は一瞬ためらったが、最終的には彼も署名した。
職員が書類を受け取り、丁寧に説明する。
「この後、家庭裁判所の調停手続きに入ります。具体的な期日については、別途通知いたします」
立ち去る前、私は正典に尋ねた。
「いつマンションから出ていくつもり?」
「今日の午後、荷物をまとめに行く」
彼は振り返りもせずに言った。
マンションに戻ると、正典はすでに私物を持ち去った後だった。クローゼットから彼のスーツが消え、本棚にあった彼のお気に入りの小説のスペースもぽっかりと空いている。私はためらうことなく、お揃いのマグカップとペアのスリッパを捨てた。そうすれば、共に暮らした痕跡を消し去ることができるかのように。
突然、この空間は私だけのものになった。私は思わずリビングで即興のダンスを踊り、久しぶりの自由を噛みしめた。
十三年間愛し合い、六年間同棲したというのに、彼のいない生活に奇妙な解放感を覚えている。
翌日、携帯の着信音が静寂を破った。正典からだった。
「週末、両親が宮城の実家でお前と食事をしたいそうだ」
私は黙り込んだ。中村夫妻はいつも私にとても良くしてくれて、実の娘のように可愛がってくれた。
かつて正典にこう言ったことがある。
「私が中村家の本当の娘だったらよかったのに」
それに比べて、私の父は厳格で保守的で、正典との交際には猛反対していた。
「行くわ」
私は最終的に承諾した。
「日曜日に会いましょう」
電話を切った後、スマートフォンのメモにその件を書き留め、中村夫妻には離婚の件を当分知らせないことに決めた。なにしろ、おじ様は高血圧だ。こんなショックには耐えられないだろう。また別の機会を探したほうがいい。
