第3章
私は中村家のマンションの前に立ち、心を込めて準備したお弁当の袋を手にしていた。
木漏れ日が地面に降り注ぎ、まだらな光の影を作っている。
私は深呼吸をして、少しでも落ち着いて見えるように努めた。
すぐに正典が廊下の出入り口に現れ、こちらへ歩いてくる。
彼はいつもの癖で、私の手からお弁当の袋を受け取ろうと手を伸ばした。
「俺が持つよ」
私は無意識に身をかわし、袋を自分の方へと引き寄せた。
「ううん、大丈夫。自分で持つから」
正典の手は宙で固まり、その目には一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。
私たちはそのまま気まずく数秒間立ち尽くし、やがて彼が手を引っ込めて、黙って前を歩き始めた。
これほど長い年月、彼のいる日常に慣れきって、正典はずっと隣にいてくれるものだとばかり思っていた。
でも、もう改めなければ。彼に依存する習慣も、すべての「私たち」という考えも。
中村おじさんとおばさんが玄関で温かく私たちを迎えてくれた。
その優しい笑顔を見ると、私の胸は微かに痛んだ。
「おじさん、これ、お好きだと伺っていたので、特別に作った梅干しのおにぎりです」
私はお弁当の袋から丁寧に包まれたおにぎりを取り出し、中村さんのお父さんへと両手で差し出した。
「おお、真那ちゃんの作るおにぎりが一番美味いんだよ。こりゃあ、ご馳走だな!」
中村さんのお父さんは目を細めて笑い、喜色満面でおにぎりを受け取った。
傍らに立つ正典の顔が、次第に曇っていく。彼は仏頂面のまま家に入り、挨拶すらしなかった。
食卓の雰囲気は奇妙に分裂していた。中村夫妻と私は話に花を咲かせているのに、正典は終始俯いて食事をし、一言も発しない。
「そうだ、真那ちゃん、お父さんの介護士さんの件はどうなったかな?」
中村さんのお父さんが不意に尋ねた。
「もし必要なら、区立病院の知り合いに連絡してあげられるよ。あそこの方がずっと介護環境がいい」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、正典が勢いよく顔を上げた。
「お義父さんが入院?!」
彼は私を見つめ、その目は驚きに満ちていた。
「うん、先月中風で倒れて、半身不随なの」
私は平然と答え、おかずを挟み続ける。
「あなた、仕事が忙しすぎるから、言わなかった」
言わなかった理由は単純だ。彼は毎日深夜まで残業し、帰宅する頃には私はもう寝ている。朝、私が目を覚ますと、彼はもう家を出てしまっている。
伝えたくても、いつ言えたというのだろう。
正典は私をじっと見つめ、何か言いたげに口ごもった。
私はお椀の中のご飯に集中していた。それが世界で一番面白いものだとでもいうように。
別れ際、中村さんのお母さんが正典の手を取り、諭すように言った。
「仕事も大事だけど、真那ちゃんのことを疎かにしちゃだめよ。いくら仕事を頑張っても、家庭を顧みないとね」
帰り道、私たちは無言だった。
車内の沈黙はまるで実体があるかのように重く、息が詰まりそうだった。
最後の信号で止まる直前、正典がようやく口を開いた。
「どうして、家庭裁判所になんて行くんだ?」
「私たちの結婚指輪、どこに置いたの?」
私は直接答えず、問い返した。
あれは正典が自らオーダーメイドしたもので、指輪の内側には文字が刻まれている。あの時、彼は真剣な顔で言った。
「これから百倍高い指輪を買ったとしても、俺たちの名前が刻まれたこの指輪だけは捨てちゃだめだ」
だから私は特別に大切にして、後にもっと高くて素敵な指輪をもらっても、決して付け替えなかった。
「フリマサイトでそれを見たわ。たったの五百円で売られてた」
私は静かに事実を告げた。
「あれは、うっかり失くしただけだ」
正典の声は少し震えていた。
「……それだけのことで?」
「じゃあ、もしその出品者があなたの言う鳥山美子だったら?どうして私たちの指輪を彼女が持ってるの?」
ただ、正典の言うことにも一理ある。
本当の理由は何だろう?
二百九十八日間、キスもハグもなかったこと?彼が同僚全員にはにこやかなのに、私にだけはいつも疲れ切って不機嫌だったこと?それとも、部長の娘の田中静が彼を慕っていると知りながら、いつまでも関係を断ち切らなかったこと?
彼が心の底から私を愛してくれていた頃の姿を知っている。
だから、彼が私を愛さなくなった時、一目で見抜けた。
「ええ、それだけのことで」
私は結局、そうとだけ言った。
愛し合っていない二人が、一緒にいる必要なんてない。
過去に囚われて、毎日泣き暮らすなんてごめんだ。
そんなの、ちっとも綺麗じゃないから。
