第3章
和泉陸と明日香は去ったきり、戻ってこなかった。
しかし、明日香がソーシャルメディアを更新したのが目に入った。
写真の中の彼女は、カフェで和泉陸と身を寄せ合っていた。その顔には明らかな喜びが浮かび、和泉陸は表情こそ乏しいものの、彼女が近づくのを拒んではいなかった。
写真に添えられたキャプションは、シンプルなハートの絵文字ひとつだけ。だが、世間を騒がせるにはそれで十分だった。
十一時半、山田優介から電話があり、用事があるので出てきてほしいと言われた。
山田優介は山田家の現当主であり、私とは幼馴染だ。
そして前世では、失意の菊池明日香と政略結婚した後、和泉陸からことあるごとに目の敵にされ、二人は共倒れになるまで争い続けた。
私が着替えを済ませて家を出ようとすると、母が玄関に立ち、複雑な眼差しで私を見ていた。
「山田家の子?」
どこか探るような声で、彼女は尋ねた。
私は頷いた。
「優香」
彼女は一瞬ためらい
「もし本当に陸と一緒にいたくないのなら……山田家と一緒になるのもいいかもしれないわ。優介くんの音楽は普通だけど、彼のビジネスの手腕は相当なものよ……」
カチャリ。
不意にドアが外から開けられ、軽く私にぶつかった。
和泉陸が帰ってきたのだ。手には綺麗に包装された紙箱を二つ提げている。中身は母と私が一番好きな店の玉子焼きだ。
彼は、私が着替えた外出着に目を落とし、冷たい声で言った。
「こんな遅くに、どこへ行く?」
私は一瞬言葉に詰まり、無意識に指をきつく握りしめた。
前世で、山田と菊池明日香が無理やり結婚させられた後、彼はすぐに私の人生から姿を消した。
彼らの結婚生活が幸せだったのかは知らない。ただ、和泉陸が山田に会うたび、家に帰ってからの彼の機嫌は異常に悪く、いつも私がその捌け口にされたことだけは知っている。
「ちょっと、散歩に」
私は唇をきゅっと結び、誰に会うかは言わず、黙って和泉陸を避けてドアを開けて外に出た。
背後から、和泉陸と母の会話が聞こえてくる。
「母さん」
和泉陸は靴を脱いで家に上がり、玉子焼きをテーブルに置きながら、落ち着いた口調で言った。
「夜食、買ってきた」
母の声は少し震えていた。
「陸、昨日の晩は……怖かったの……」
「母さん」
和泉陸は彼女の言葉を遮り、穏やかな声で言った。
「わかってる。それに、俺を信じてほしい。和泉家に育ててもらった恩は、ずっと心に刻んでる。俺が最終的に誰と結婚しようと、母さんと優香を見捨てることはない。過去のことは、もう水に流そう」
母はむせび泣きながら頷いた。
私がドアを閉めて立ち去ろうとした、その時。和泉陸が何気ない様子で尋ねるのが聞こえた。
「優香がこんなに遅くに出かけて、安全なのか?」
「大丈夫よ」
母の声は随分と軽くなっていた。
「山田優介くんに会いに行ったんだもの。山田さんちの子が一緒なら、問題ないわ」
「ねえ、陸。優香と山田くん、お似合いだと思わない? 私、あの二人、結構いいと思うの」
続いて、何かが割れるような、甲高い音が響いた。
家を出るとすぐ、銀色のポルシェが東京の夜景の中に停まっているのが見えた。車体は街のネオンの光を反射している。
山田優介は仕立ての良いアルマーニのスーツを身にまとい、車に寄りかかっていた。その立ち居振る舞いには、生まれながらのエレガントさと気品が漂っている。
私が車に乗り込むと、柔らかなレザーシートが疲れた体を少しだけリラックスさせてくれた。
「六本木に夜景でも見に行く? 天気がいいみたいだし、富士山も見えるって聞いたけど」
山田優介はハンドルを調整しながらも、時折ちらりと私に視線を向けた。
「ううん、今日は少し疲れてるから」私は静かに断り、窓の外を流れる光の帯を眺めた。
「じゃあ、銀座のバーで軽く一杯飲むとか? それか、どこかで話でもする? 誰かに話す必要がありそうに見えるけど」
彼の声は優しく、気遣いに満ちていた。
私は彼の方を向き、その心配そうな目と合って、ふと笑った。
「私、実はそんなに落ち込んでないの」
「そうかい?」
山田優介は眉を上げ、明らかに信じていない様子だった。
「本当に、もう彼のことはどうでもいいの」
私はまっすぐ前を見据え、落ち着いた声で言った。
「和泉陸と菊池明日香が一緒になるのは、私にとってはむしろ解放なのよ」
その言葉を聞いて、山田優介はハンドルを握る指にわずかに力を込めた。その瞳には、私には読み解けない複雑な感情がよぎる。
彼はしばらく黙り込み、どう切り出すべきか考えているようだった。
「あのオルゴール……」
彼はついに口を開いた。その声はいつもより低い。
「おととい君にあげたやつ、開けた?」
私ははっと息を呑み、あれを武器として使ってしまったとは言いづらかった。
「開けたけど、完全に開けたわけじゃ……」
私はためらいがちに答えた。
山田優介は突然シートベルトを外し、わずかに身を乗り出してきた。
元々広くない車内だ。その動きで、お互いの呼吸が感じられるほどに距離が縮まる。
「誰かにあげたのか?」
彼の声は張り詰め、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「優香、教えてくれ。誰にも渡してないよな?」
私が答える間もなく、車のドアが乱暴に引き開けられた。
一本の腕が中に伸びてきて、有無を言わさず私を車内から引きずり出す。
冷たい夜風が顔に吹きつけ、私は数歩よろめいてようやく立ち直った。
そこに立っていたのは、恐ろしいほど冷え切った表情の和泉陸だった。
「和泉優香」
彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。
「こいつにここまで近づくのを許したのか? 自分が何をしているかわかっているのか!?」
「陸さん」
山田優介が車から降りてきて、その顔には挑発的な笑みが浮かんでいた。
「どうしたんです? 優香と話すのに、あなたの許可が必要になったんですか?」
「少し、首を突っ込みすぎじゃないですか?」
「山田優介、和泉家のことに口を出すな」
和泉陸は冷たく言い放った。
「自分は明日香と熱愛中なのに、妹が誰と会うかまで管理するんですか?」
山田優介は車のドアに寄りかかり、皮肉を込めた口調で言う。
「実に思いやりのあるお兄さんですね」
和泉陸の眼差しが、瞬時に危険なものに変わる。
「警告しておく——」
「本当に、彼女をただの妹として見ているんですかね……」
山田優介は意味深に問い返し、その視線は私と和泉陸の間を行き来した。
