第3章

母の髪がまだ絡みついたままの蝶のクリップを手に取ると、あの頃の記憶が堰を切ったように溢れ出してきた。2012年3月、母が亡くなるまでの最後の三日間。

「映美、こっち向いて! 笑って!」

ママは、パパが誕生日にくれた青いワンピースを着て、銀色のデジカメを構えていた。襟元にはこれとそっくりな蝶のクリップが留められている。その瞳はきらきらと輝いていたけれど、今ならわかる。そこには、どこか必死な色も宿っていた。

ママは夢中でシャッターを切り続けた。私が顔にアイスをつけた時も、カシャッ。メリーゴーラウンドで笑った時も、カシャッ。キャンディーの包み紙を拾おうと屈んだ時でさえ、写真を撮っていた。

「ママ、どうしてそんなにたくさん写真を撮るの?」不思議に思って私が首を傾げると、

ママはカメラを下ろし、膝をついて私の髪を撫でた。「だって、今日の映美はとても可愛いから。全部、覚えておきたいの」

声は少し掠れていたけれど、その笑顔はとても温かかった。私はただママが喜んでいるだけだと思っていた。今ならわかる。母は、私たちに残された一秒一秒を、必死にその胸に刻みつけようとしていたのだ。

夕日が沈む帰り道、私は遊園地で買ってもらったキャンディーを握りしめ、舌の上でとろける苺の甘さを味わっていた。ママはずっと無口だったが、不意に立ち止まり、私の目の前で膝をついた。

私の目をじっと見つめるその手は、かすかに震えていた。「映美、もし、いつかママが一緒に遊べなくなっても、ママのこと、忘れないでいてくれる?」

とても奇妙な質問だった。私はキャンディーを口に入れたまま、こくこくと力強く頷いた。「もちろん忘れないよ! ママは世界で一番のママだもん!」

「ほんと?」その声は囁き声のようだった。

「ほんとだよ! 絶対に忘れない!」

ママは微笑んだが、背を向けた時、目元を拭うのが見えた。私は、風のせいで涙が出ただけだと思っていた。

その夜、トイレに起きた私は、リビングに明かりがついているのに気づいた。そっと忍び足で近づくと、ソファに座ったママが、パパの白いシャツを一枚、抱きしめているのが見えた。その肩は震えていた。

「直人……」誰もいない部屋に向かって、かろうじて聞こえるほどの小さな声でママが囁いた。「もう一度だけでいいから、私を見て……覚えてるって、言って……」

私はドアの陰で凍りついた。パパのシャツに顔を埋めるママは、とても小さく、打ちひしがれて見えた。その時、ママが私に気づいた。

「映美? どうしたの、起きてたの?」ママは慌てて涙を拭い、無理に微笑んでみせた。

「ママ、泣いてたの?」私は歩み寄ってママに抱きついた。

「ううん、可愛い子。悲しい映画を観てただけよ」ママは私を抱き上げた。「もうベッドに戻りましょう。明日は海岸に行きましょうね、いい?」

ママの香水の匂いに、名前のつけられない悲しい何かが混じっている気がした。

ママは約束を守ってくれた。翌日――ママの最後の日――本当に私を海岸へ連れて行ってくれた。潮風は優しく、陽光が金色の砂を温めていた。ママは私に靴を脱がせ、砂浜に足跡をつけさせた。

「ここに足を置いて。動かないでね」ママは私の小さな足跡の周りを指でなぞってハートを描き、その中に「千代&映美」と書いた。

「大人になってこれを見たら、ママがいつも一緒にいるってわかるからね」

その笑顔は太陽よりも眩しかった。ママと手を繋いで海を見つめていると、波が私たちの足元を優しく洗った。

「ママ、またここに来ようね」

「ええ、映美。ママは、いつもあなたと一緒にいるわ」

今思えば、母は嘘をつかなかった。ただ形を変えて、今もいつも私と一緒にいてくれる。

その夜、ママは私に、おやすみ前のお話――私の大好きな『赤ずきんちゃん』を読んでくれた。その声は囁くように優しかった。物語の途中で、ママは不意に言葉を止め、息ができないほど強く私を抱きしめた。

「映美、ごめんね……」母の声は途切れた。「こんなに小さいのに、これから……」

その先の言葉は、嗚咽に掻き消された。母の涙が、冷たく濡れて私の顔に落ちてくる。いつものシャンプーの匂いがする髪が、私の頬をくすぐった。

「ママ、どうして泣いてるの?」私は手を伸ばしてママの涙を拭った。

「泣いてないわ、可愛い子。ただ、あなたのことが大好きすぎるだけよ」ママは私の額にキスをした。「もうおやすみ、映美」

ママは私が完全に眠りにつくまで、とても遅くまでそばにいてくれた。それが最後の物語で、最後のおやすみのキスになるなんて、知る由もなかった。

真夜中、電話の音で私は目を覚ました。目を開けると、ベッドの端に腰掛けた母が、震える携帯電話を手にしているのが見えた。画面に表示された名前に、母の全身が震えた。「直人」と。

母は震える息を吸い込み、電話に出た。「直人さん、私……言いたいことが――」

冷たい女の声がそれを遮った。「直人さんは今、手が離せないの。もうかけてこないで」

そして、ツーツーという無機質な音が響いた。

携帯電話が母の手から滑り落ち、床に叩きつけられた。

母はただそこに座っていた。まるで全身から命が抜き取られてしまったかのように。やがて、ぽつりと囁いた。「最後まで、言わせてさえくれなかった……」

母は、私が起きていることにも気づかず、壊れた携帯を枕の下に押し込んだ。カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた母の瞳には、すべてを諦めきったような色が浮かんでいた。

あの声の主は山口若菜だった。母が一番父を必要としていた時に、その声を無慈悲に断ち切った女。

その夜を境に、母が目を覚ますことは二度となかった。

この蝶のクリップを握りしめると、私はあの頃に戻っていた。母は最後の力を振り絞って、私に美しい記憶を残してくれた。ありふれた日常だと思っていたあの瞬間が、実は母なりの別れの挨拶だったのだと気づくのに、十三年もの歳月がかかってしまった。

母は最期の瞬間まで、父からの折り返しの電話を、決してかかってくることのないその電話を、待ち続けていたのだと、私はずっと思っていた。

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