第2章

「ママ!」

 川森そらが山田美恵子に駆け寄った瞬間、その表情がはっきりと見えた。

 驚きもなければ、気まずさもない。あるのは、それが当たり前だと言わんばかりの柔らかな笑みだけ。

 彼女はしゃがみ込み、慣れた手つきで川森そらを受け止める。まるで、その呼び名を数え切れないほど耳にしてきたかのように。

「いい子ね。寂しかった?」と、山田美恵子は優しく問いかける。

 私は立ち尽くしたまま、ゆっくりと拳を握りしめる。

 私を「お姉さん」と呼ぶこの女が、今、私の息子の「ママ」という呼び声を平然と受け入れている。

「ママ、どうせパパと離婚するなら、ちょうどいいから美恵子ママが僕のママになればいいよ」

 川森そらは興奮した様子で山田美恵子の手を引く。

「美恵子ママはすごく優しいんだ! この前遊園地に連れて行ってくれた時なんて、乗りたいもの全部乗せてくれたし、おもちゃだっていっぱい買ってくれたんだから。ずっと行きたかったレストランのハンバーガーだって食べさせてくれたし、あそこのポテト、すっごく美味しかった!」

 そう言いながら、彼はわざとらしく私の方を振り返った。その瞳には、露骨な嘲りの色が浮かんでいる。

「誰かさんとは大違いだ」と、川森そらは口をへの字に曲げる。

「野菜ばっかり食べさせて、ポテトはダメって言うし。ジャンクフードは体に悪いとか、つまんないことばっか。毎日勉強勉強って、終わるまで遊んじゃダメとか、全然いい人じゃない! それに、美恵子ママの声のほうがずっと可愛いもん。パパがママの声にアレルギーなのも、その声が耳障りだからでしょ!」

 息子のわざとらしい被害者面を見ながら、私は悟っていた。この六歳の子供は、言葉のナイフで私を傷つけようとしているのだと。

 私が後悔し、泣き崩れて懇願する姿が見たいのだ。

「そうねえ、お姉さん」

 山田美恵子はため息をつき、咎めるような視線を私に向けた。

「子供なんて遊ぶのが仕事みたいなものじゃないですか。厳しすぎますよ。そらちゃんはまだこんなに小さいんですよ? お菓子が嫌いな子供なんていませんって」

 その口調は優しく思慮深げだが、一言一句が「お前は母親失格だ」と告げている。

 山田美恵子は川森そらの頭を撫でながら、笑みを浮かべた。

「それに、今そんなに厳しくしてると、お姉さんが年をとった時、そらちゃんに面倒見てもらえないかもしれませんよ?」

 その言葉は軽やかだったが、鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。

 息子の健康を気遣い、勉強を見てやっていたこと――それら全てが、彼が私を恨む理由にしかなっていなかったとは。

 ああ、確かに私の声は山田美恵子のように甘くはない。

 けれど、長年の沈黙さえなければ。

 私だってかつては、歌手になりかけたほどの喉を持っていたのに。

 川森寛貴は傍らに立ち、息子と山田美恵子が私を糾弾する様子を微笑ましげに見守っている。

 この三人の調和のとれた光景を眺めていると、ふいに笑いが込み上げてきた。

「いいわよ」

 私は頷いた。自分の声があまりに平坦で、恐ろしいほどだった。

「じゃあ、あなたが育てて」

 山田美恵子の笑顔が凍りつく。

 私は畳みかけるように続けた。

「山田美恵子、今から母親になる練習を始めればいい。どうせこれから川森そらの面倒を見ることになるんだから、準備くらいしておかないと。そうじゃなきゃ、まともな世話なんてできないでしょ?」

 その場の空気が凍りついた。

 川森そらは目を丸くしている。まさか私がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。

 山田美恵子の顔色は青ざめたり紅潮したりと忙しく、唇をパクパクさせているが声は出てこない。

 川森寛貴が勢いよく顔を上げ、複雑な眼差しで私を睨んだ。

「ケーキを切ろう」

 唐突に、川森寛貴が口を開いた。低く重い声だ。

「息子の願い事の時間だ」

 その口調は淡々としていて、今の衝突などなかったかのように振る舞っている。

 彼はいつだってそうだ。聞きたくないことは、たとえメッセージを送っても見て見ぬふり。

 お菓子を買ってきてと頼めば忘れるし、資料を届けてと言えば気づかなかったと言う。

 けれど、山田美恵子が相手だと話は別だ。

 彼女がマンゴーのミルクレープが食べたいと言えば、わざわざ車を一時間走らせて西の人気店まで買いに行く。

 一昨年なんて、彼女がシャンパン色のバラが好きだと知るや、三日も前から九十九本の花束を予約していた。

 なのに、私の誕生日なんて一度たりとも覚えたことがない。

 食卓では、三人が談笑しながらケーキにナイフを入れている。

 息子は声を張り上げ、「美恵子ママが元気でいられますように! パパの仕事がうまくいきますように!」と願い事を叫んだ。

 川森そらが山田美恵子にケーキを「あーん」して食べさせると、彼女は目を三日月のように細めて笑う。

 川森寛貴は、そんな二人を慈愛に満ちた目で見つめていた。

「川森寛貴、お水が飲みたいわ」と、不意に山田美恵子が言った。

 川森寛貴は即座に私へ顔を向ける。

「水を汲んでこい」

 当然とでも言うような口調。まるで私がこの家の家政婦であるかのように。

 私は動かなかった。ただ、この滑稽な茶番劇を冷ややかに見つめる。

 三人の和気藹々とした団欒。そして、余計者の私。

 ふと、全てがどうしようもなく馬鹿らしく思えた。

 この茶番は、もう終わりにすべきだ。

「川森寛貴」

 私は口を開いた。その声は、驚くほど明瞭だった。

「私の声を聞くと気分が悪くなるんじゃなかったかしら?」

「それがどうして、今度は私の声をシャットアウトするようになったの? どうやら声のアレルギーだけじゃなくて、都合のいい難聴まで患ってしまったみたいね」

「なら、もう一度言うわ」

 私は一言一句を噛み締めるように、彼の目を真っ直ぐに見据えた。

「離婚しましょう」

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