第2章
東野明司は顔色一つ変えずに言った。
「薫子、社員たちの下世話な噂話だぞ。まさか本気にしてるのか?」
「彼女は日村教授の娘だ。日村菫。前にも話しただろう」
確かに、聞いた覚えがある。
だが、それは三年前のことだ。
三年前の夕食の席で、彼は恩師が亡くなったと口にした。
「爺さんは急に逝っちまって、娘が一人取り残されたんだ。あの子は甘やかされて育ったから、能なしで性格にも難がある。外で働かせたらきっと虐められるだろう」
「会社に置いて、適当な閑職でもあてがってやろうと思う。食い扶持ぐらいは出してやりたいんだ、それが師弟の情ってもんだろう。薫子、君は優しいから、居候が一人増えるくらい気にはしないだろ?」
あの時、私は何と答えたのだったか。
それどころか、恩師の娘さんが肩身の狭い思いをしないよう、よく面倒を見てあげてと寛大にも頼んでしまった。
今思えば、反吐が出るほど皮肉な話だ。
「それが私への釈明のつもり? 東野明司」
「納得できないわ」
私は屈み込み、東野明司が驚きの視線を向ける中、そのコートを拾い上げた。
「今日は結婚七周年の記念日よ。レストランは予約してあるから、夜には私が納得できる答えを持ってきてちょうだい」
夜の八時。東野明司は現れず、代わりに秘書がプレゼントを届けに来た。
「奥様、M&Aの案件でトラブルがありまして、東野は手が離せないそうです。ですので、先に記念日の品をお届けに上がりました」
箱を開けると、最高級のエメラルドのネックレスが収められていた。
けれど、私はエメラルドなど好きではない。
私は箱を閉じ、静かに問いかけた。
「これが、あの人からの答え?」
「ネックレスには不自由してないわ。若い愛人のご機嫌取りにでも使えばいいと伝えて」
秘書が去った後、私は携帯電話を取り出し、友人から送られてきた動画を再び再生した。
動画の中では、夜空に絢爛な花火が咲き乱れ、テラスで抱き合う二つの人影を照らし出していた。
東野明司が後ろから日村菫を抱きすくめ、空を指差して何かを囁いている。日村菫は体をよじって笑い声を上げ、その肩には、東野明司が愛用している黒のコートが羽織られていた。
胃の腑が引っくり返るような、激しい痙攣が走る。
私は痛む胃を強く押さえた。
七年前、プロポーズの時も、彼は私のため一晩中花火を上げてくれた。
彼は言ったものだ。
『薫子、君の実家は資産家で、欲しいものは何でも手に入るだろう。僕には君の家ほどの財力はないけれど、この真心だけは誰にも負けないつもりだ』
花火は本当に、一晩中絶え間なく打ち上げられた。翌朝、彼が最後のセットに火をつけるのを見て、私はプロポーズを受けたのだ。
彼の言葉通り、私には欠けているものなど何もなかった。
ただ一つ、私を愛してくれる人を除いては。
けれど、ああ、何ということだろう。
今になってようやく、悲しい事実に気づいてしまった。彼の深情けなんてものは、いくらでも複製可能なテンプレートに過ぎなかったのだ。
ヒロインをすげ替えても、その茶番劇は感動的に上演できるらしい。
私が信じたあの真心は、とっくの昔に薄汚れていた。
動画を消し、私は電話をかけた。
「日村菫を、家に連れてきなさい」
