紹介
犯人はスプレー缶を手に、無邪気に笑っている。「お姉さん、白は縁起が悪いから、赤を足してあげたの」
私が手を上げようとした瞬間、夫が駆け込んできて彼女をかばい、眉をひそめて私を責めた。「まだ若いんだ、悪気はない。ただの冗談なのに、そんなに目くじらを立てることないだろう?」
その瞬間、私は目の前にいる、我が家の力で成り上がったこの男を見て、ふと笑みがこぼれた。
彼は忘れてしまったのだろう。この天をも覆うほどの富貴が、誰によって与えられたものなのかを。
私は赤い太字の油性ペンを取り出し、震える少女に一歩、また一歩と近づいていく。
「赤がお好きなら、望み通りにしてあげる」
東野明司?
周防家を離れれば、彼が犬以下の存在になることを、思い知らせてやる。
チャプター 1
鼻をつく刺激臭に、私は悪夢から引き戻された。
視線を落とすと、ジャケットに滴るような鮮血色の文字が刻まれている。
『ビッチ』
ペンキはまだ、どろりと垂れ続けていた。
「あら、お目覚め?」
若い女が、缶スプレーをカシャカシャと弄びながら、私を見下ろしていた。
「ウチの会社、赤がイメージカラーなのよね。その白い服、ちょっと縁起悪くない?」
彼女は悪びれもせず、そう言って笑った。
瞬間、血液が沸騰して脳天を突き抜けた。私は一つ大きく息を吸うと、猛然と立ち上がる。女の長い髪を鷲掴みにし、力任せに後方へと引き倒した。
「きゃああっ——!」
悲鳴を上げ、彼女の体勢が制御不能になって崩れる。
私はその髪をさらに強く絞り上げ、ペンキの滴る箇所へ無理やり顔を押し付けた。
「さっさと拭き取りなさい!」
「離して! このクソババア、離せってば!」
日村菫が死に物狂いで身をよじる。彼女の爪が私の手背を抉り、赤い筋が幾本も刻まれた。
「薫子!」
休憩室のドアが勢いよく開く。
東野明司が足早に入ってきた。
彼は私が想像していたように激昂することはなかった。それどころか、眉をわずかに顰めただけだ。
彼はベッドサイドまで歩み寄ると、私の手首を優しく、しかし有無を言わせぬ強さで握りしめた。
「まずは手を離そうか。痛がっているだろう?」
私が拘束を解く。
途端、日村菫はあからさまな被害者の顔を作り、よろめきながら東野明司の胸に飛び込んだ。
「明司ぃ……痛いよぉ……」
東野明司は彼女を見下ろし、その瞳に痛ましげな色を浮かべる。
彼はそっと手を伸ばし、私が引っ張り上げた頭皮を労るように極めて優しく撫でた。
「もう大丈夫だ。俺がついている」
日村菫をあやし終えてから、ようやく彼は私に向き直った。
「薫子、今日は少し疲れが溜まっているんじゃないか? どうしてそんなに気が立っているんだ」
彼は大袈裟に溜息をつく。
「菫はまだ若いし、世間知らずで子供っぽいところがある。だが、君はもういい歳だろう。小娘相手に本気で手を上げるなんて、大人気ない。外聞が悪いよ」
私は胸元の文字を指差し、彼を問い詰めた。
「これが、子供の悪戯で済むこと?」
東野明司の視線が、私の胸に書かれた『ビッチ』の文字をなぞる。
彼の眉間の皺が、ようやく少しだけ深くなった。
「菫、いくら何でも言葉が過ぎるぞ。彼女に謝りなさい。それでこの件は終わりにしよう」
日村菫が弾かれたように彼の胸から顔を上げる。信じられないといった様子で、彼女は金切り声を上げた。
「会社じゃ何をしたっていいって言ったじゃない! 誰もあたしに指図できないって言ったくせに!」
「東野明司、話が違う! 明司の嘘つき!」
東野明司は頭痛を堪えるように眉間を揉んだが、何も言い返さなかった。
日村菫は彼を乱暴に突き飛ばすと、脱兎のごとく部屋を飛び出していく。
「もう大っ嫌い!」
東野明司の顔に、困り果てたような色が浮かぶ。
彼は反射的に半歩踏み出し、追いかけようとした素振りを見せたが、私の視線に気づいて足を止めた。
「……あの子は直情的なだけで、根は悪い子じゃないんだ。後でよく言い聞かせて、君に謝罪させるよ」
彼は言い訳がましくそう言った。
胸の奥から込み上げる荒唐無稽な寒気を、私は無理やり押し殺した。そして、侮蔑の言葉とペンキにまみれたジャケットを脱ぎ捨てる。
彼は踵を返して洗面所へ向かい、熱いタオルを絞って戻ってきた。
そして私の手を取り、飛び散った赤いペンキの飛沫を丁寧に拭い始める。
「ねえ、東野明司。あなたの妻は一体誰?」
私は静かに問いかけた。
彼の手がピタリと止まる。
「何を言い出すんだ? 僕の妻は、君に決まっているじゃないか」
「そうかしら」
私は淡々と、彼の手から自分の手を引き抜いた。
「従業員たちが、あの子のことを『奥さん』って呼んでいるのは、私の聞き間違い?」
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「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
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もう二度と、過去には戻らない。
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