第1章 離婚
別荘のリビングで、小泉星菜はテレビに映る「自分のデザイン」を見ていた。
『白石菜々子さん、今大会ジュエリーデザインコンテスト優勝おめでとうございます! プレゼンターは松原グループ社長、松原真哉さんです!』
カメラがステージ袖へ振れる。
黒いスーツに身を包んだ松原真哉が、松のように真っすぐな体躯で壇上へ上がり、トロフィーを白石菜々子へ差し出した。
いつもは冷ややかなその顔に、珍しく笑みが浮かぶ。
続いて、小さなスーツ姿の男の子が、ひまわりの花束を抱えて駆け上がった。
「聖矢!」
白石菜々子はしゃがみ込み、松原聖矢を花束ごと抱きしめると、頬にちゅっとキスを落とした。
「ありがとう、ベビー!」
記者たちのフラッシュが狂ったように瞬く。
「松原社長、白石さんの作品は圧巻でした。プレゼンターとしてのご感想は?」
「『スターリーナイト・キス』の着想は“愛”だと伺いました。詳しく教えてください」
「お子さん可愛い! 白石さんにそっくりですね!」
「幸せな三人家族ですね!」
――そう。見た目だけなら、たしかに“家族”だ。
小泉星菜は口元を引きつらせ、笑おうとして……笑えないことに気づいた。
今日は、松原真哉との結婚記念日。
そして本来なら、彼女が壇上に立つはずだった授賞式の日だった。
『スターリーナイト・キス』は、三か月徹夜同然で詰め、十七回描き直してようやく決めたデザイン。
だというのに、白石菜々子がこぼした一杯のコーヒーで原稿は台無しになった。
そして――その“成果”は、星菜の夫と、実の息子の了承のもと、白石菜々子へ渡った。
白石菜々子はそれをなぞるように「原稿」を描き直し、コンテストへ出したのだ。
白石菜々子は松原真哉の初恋だった。二人は結婚寸前までいっていた。
だが七年前、松原真哉は罠にはめられ、薬を盛られた。
当時、ホテルでアルバイトをしていた小泉星菜が、事故のように彼の部屋へ迷い込む。
翌朝、“密会”のスクープが、名門の醜聞を好む芸能記者によってネットへ投下され、白石菜々子は絶望して翌日には国外へ飛んだ。
松原真哉は追いかけるつもりだった。
けれど両親が世論沈静と会社の株価維持のため、星菜との結婚を強引に決めた。
星菜は、松原真哉が自分を好きではないと最初から知っていた。
だから結婚したくなかった。関係を持った後に妊娠が判明しても、なお。
中絶する、と松原家の両親に告げたことさえある。だが却下された。
さらに彼らは、星菜が松原家の援助で大学へ通えた事実を盾にした。
孤児だった彼女にとって、援助は命綱だった。
恩を返すために――小泉星菜は松原真哉と結婚した。
結婚後、彼女は仕事を捨て、家庭に入った。
松原真哉と子どもの世話に人生を捧げた。
松原真哉は、薬を盛ったのは小泉星菜だと思い込んでいた。
この結婚は彼女の策略だ、と。だから冷たかった。ずっと。
それでも星菜は折れなかった。
「いつか受け入れてくれる」
そう信じて、ただ必死に尽くした。
だが白石菜々子の帰国が、七年分の努力を笑い話に変えた。
三か月前、白石菜々子は戻ってきた。
松原真哉に告げたのだ――癌で、余命は一年。最期の願いは、もう一度一緒になることだ、と。
松原真哉は迷いなく頷いた。
それから彼は菜々子に張り付き、星菜には“無条件で”菜々子の要求を叶えろと言った。
「これはお前が菜々子に返すものだ」
「お前は妻の立場を得た。これ以上を望むな」
「俺は菜々子を看病してるだけだ。浮気じゃない。大人になれ」
浮気じゃない?
彼が菜々子に向ける優しさは、浮気と何が違うというのか。
七年前、あの夜の被害者は、星菜だって同じだったのに。
悲しんだ。怒った。
それでも無駄だった。菜々子は棘のように、夫婦の間に刺さり続けた。
やがて命がけで産んだ息子まで、菜々子へと引き寄せられていった。
もう疲れた。心底。
小泉星菜はテレビを消し、部屋へ戻ろうとした。
そのとき、玄関の扉が開き、松原真哉が松原聖矢の手を引いて入ってきた。
同じような濃色のコート姿。並べば大と小の“コピー”みたいだった。
「ママ!」
聖矢が駆け寄ってくる。
「テレビ見た? 菜々子さん優勝したんだよ! あのネックレス、すっごく綺麗!」
星菜は涙を飲み込む。
「見たよ。聖矢、今日は楽しかった?」
「楽しかった!」
目をきらきらさせて言う。
「菜々子さんがアイス連れてってくれて、最新のレゴも買ってくれた! パパも一緒だった!」
そして上目遣いで――。
「ママ、まさか怒ってないよね? 菜々子さん、あと一年しかないんだよ。怒るなんて心が狭いよ!」
胸が針で刺されたように痛い。
それでも星菜は、ただ一言だけ返した。
「お医者さんが言ってたでしょ。心臓に刺激はよくない。冷たいものは控えなきゃ」
聖矢の顔が一気に曇る。
「またそれ! ママっていつも僕を縛る! 菜々子さんはそんなこと言わないもん。僕と一緒に食べてくれる!」
赤くなった目で、星菜は言う。
「彼女は、あなたの健康に責任を負わないからよ」
「たまにくらい平気だ。神経質になりすぎるな」
低い声が割って入った。松原真哉だ。
――まただ。
彼女が厳しくすると、松原真哉はいつもこうして丸く収める。
まるで彼女が悪者で、彼が“理解ある父親”みたいに。
聖矢はべっと舌を出し、二階へ駆けていった。
空気が、すんと冷えた。
小泉星菜は顔を上げ、目の前の男を見る。
整った輪郭。広い肩と絞れた腰。冷たい気配と、近寄りがたい品。
手が届かない――そういう男。
星菜は瞬きをして、声を絞り出した。
「松原真哉。今日が何の日か、覚えてる?」
男はようやくリビングの飾りつけに気づいた。
一瞬だけ驚いた目をして、すぐ平静に戻る。
「悪い。今日は会社の用事があった。それに聖矢を授賞式に連れて行った」
小泉星菜は小さく笑った。
「授賞式? あれは私の授賞式だったの。白石菜々子が金賞を取れたのは、私の作品を盗んだから」
「盗作?」
松原真哉の視線が冷える。
「小泉星菜、今さらまだ嘘をつくのか」
侮蔑が、静かに滲む。
「お前のデザインを菜々子に渡したとき、菜々子は言った。お前の原稿は、彼女が前に描いた案とほとんど同じだってな」
「盗作があるとしたら、お前のほうだ。菜々子が今の評価を得たのは実力だ」
「俺も馬鹿だった。菜々子のデザインをお前に手伝わせようとしたなんて」
「俺に養われてるだけの専業主婦が、どうしてジュエリーをデザインできる?」
――俺に養われてるだけ。
彼の中の彼女は、そんな存在だったのか。
小泉星菜は下唇を噛み、怒りで笑いそうになる。
「松原真哉。白石菜々子の原稿を、あなたは見たの? 私が盗作だって言われて、あなたはそれを信じるの?」
「七年も家にいて、デザインの才能を一度も見せなかった。菜々子は帰国前から名の知れたデザイナーだ」
松原真哉は顔を硬くし、距離のある声で言う。
「お前たち二人。俺がどっちを信じるべきか、自分で分かるだろう」
――分かった。
結局、彼は心底から彼女を見下している。
小泉星菜は拳を握りしめ、争う気力すら失った。
夫なんて、もう要らない。
七年抱いても温まらない石を、何のために持っている?
「松原真哉。離婚しましょう。白石菜々子を看病したいんでしょ。別れたら堂々と一緒にいられる」
「……何を言ってる?」
いつも冷たい瞳が、珍しく揺れた。
「ふざけるな」
不機嫌に唇を結ぶ。
「小泉星菜、お前は仕事もない。俺から離れてどうやって生きるつもりだ」
「どう生きるかは、あなたに関係ない」
小泉星菜はまっすぐ見返し、息を吸う。
「離婚協議書は送る。受け取ったら、早くサインして」
立ち上がった、その背に――。
「聖矢は? まだ六歳だ」
松原真哉の声が沈む。
彼は菜々子を愛していても、離婚だけは考えたことがなかった。
菜々子は余命一年。彼女がいなくなった後も、家と子どもを世話する人間が必要だから。
小泉星菜は振り返らず、低く言った。
「聖矢は白石菜々子が好き。ちょうどいいでしょ。三人で仲良く暮らしたら」
