第2章 彼は私と一緒に行きたくない
松原真哉が何か言いかけた、そのとき。スマホの着信音が鳴った。
取り出した瞬間、小泉星菜の視界に表示名が飛び込んでくる。
――菜々子。
真哉が電話に出ると、向こうが何を言ったのか、顔色がさっと変わった。
「分かった」
通話を切り、真哉は星菜を一瞥する。
「話は、俺が戻ってからだ」
それだけ言い捨てて、振り返りもせず出ていった。
小泉星菜は、彼の背中を静かに見送った。
松原真哉という男には、長所が多い。背が高い。顔もいい。仕事も成功している。
けれど欠点も、同じくらい分かりやすい。
自尊心が高く、利己的で、白石菜々子しか愛さない。彼女の苦しみなど、習慣みたいに見ないふりをする。
かつては期待していたから、踏みつけられても耐えられた。
でももう、媚びるつもりはない。
――一度くらい、自分のために生きる。
……
その夜、小泉星菜は荷物をまとめて家を出た。
夜風は冷たく、いつの間にか雨が降っている。
顔を上げてまばたきをすると、雨粒が頬を打った。骨の芯まで冷えるような寒さ。
七年前、来るときもスーツケースは一つだった。
七年経って出ていく今も、やはりスーツケースは一つ。
まつ毛を伏せ、配車アプリを見ても表示はずっと「手配中」のまま。
親友の小西麻里の家に着いた頃には、全身びしょ濡れだった。
麻里は目を丸くし、勢いよく星菜を部屋へ引っ張り込む。
「ちょっと……! どうしたの、その格好!」
星菜が離婚の話をすると、麻里は長く黙り込み、やがて目を赤くした。
「松原真哉ってほんと最低! 子ども産んで、義父さん義母さんの世話までして、家のこと全部やって……それでこの扱い?」
そして、星菜の手をぎゅっと握る。
「それで、聖矢は? 親権はどうなるの?」
星菜は目を伏せた。
「松原の姓だし……真哉のところになると思う」
「手放せるの?」
麻里の声が震える。
「難産で、手術台で死にかけたじゃない。あいつは仕事ばっかりで、ずっとあなたが育ててきたのに。なんで父親に取られるのよ」
「……聖矢が、私と行きたくないから」
星菜は苦く笑った。
「今、あの子の心には菜々子さんしかいない」
麻里は唇を尖らせる。
「子どもなんて一時的に惑わされてるだけよ。母子なんだから」
星菜は答えなかった。
聖矢には先天性の心疾患がある。食事も生活も、星菜は神経を尖らせて守ってきた。
昔の聖矢は、よく腕の中に潜り込み、「ママが一番」なんて言った。
――なのに今は、母子で落ち着いて話した記憶すら、遠い。
そのとき、着信音。
表示は――聖矢。
胸がどくん、と跳ねた。
家にママがいないことに気づいて、心配して……?
星菜は通話に出た。
「聖矢、こんな遅いのにどうしたの。早く寝なきゃ」
『ぼく、菜々子さんの家にいる!』
弾む声。
『ここね、おいしいものいっぱいあるんだ!』
心が、底へ沈んだ。
『さっきパパと菜々子さんが話してるの、聞いた』
聖矢は急に真面目な声になる。
『菜々子さん泣いてた。ママは嫉妬でおかしくなったって。抄ったのはママで、賞を取ったのは菜々子さんが自分でデザインしたからだって』
星菜はスマホを握りしめた。
「……聖矢はどう思うの。ママが、誰かを陥れると思う?」
数秒の沈黙。
『ママ、菜々子さんはすごいよ。ママは毎日家にいて、ぼくとパパのごはん作ってるだけじゃん。どこがジュエリーなんてデザインできるの?』
無邪気で残酷な声に、苛立ちが混じる。
『ママ、もう菜々子さんをいじめないでよ』
――いじめる?
鈍い刃で心臓を削られた。
言いたかった。自分だって、かつては才能を認められたジュエリーデザイナーだったと。
けれど言葉は喉でつかえ、出てこない。
四歳の子に何を説明するのか。
彼の中では、レゴを買ってくれる菜々子さんが「いい人」で、厳しいママが「悪い人」なのだ。
星菜は声を整えた。
「聖矢……これからは自分で体に気をつけて。先生も言ってたでしょ。外のものは食べちゃ――夜更かしも――」
『分かったって!』
最後まで聞かず、苛立って遮られる。
『ママって毎回それ! うるさい! 菜々子さんはそんなこと言わない!』
ぷつん、と通話が切れた。
耳元にツーツーという虚しい音だけが残る。
――うるさい、か。
たしかに、うるさかったのかもしれない。
でも、もう二度と。そう言う機会もない。
麻里が恐る恐る訊く。
「聖矢、なんて?」
星菜は首を横に振った。喉が詰まって声が出ない。
どれほど時間が経ったか。痛みが少しだけ引いたころ、星菜は顔を上げた。
「麻里……私、もう一度デザインをやりたい」
麻里の顔がぱっと明るくなる。
「それよ! あなた、ずっとそうすべきだった! 昔、国際賞を取ったとき、審査員が何て言ってたか覚えてる? 『デザイン界の新星だ』って。結婚なんかしてなきゃ今ごろ――」
言いかけて、麻里ははっと口をつぐむ。
星菜は自嘲気味に笑った。
「……かもね。でも道を選んだのは私。誰も責められない」
聖矢が生まれてから、彼女はキャリアを捨てた。
七年の結婚が残したのは、尽きない消耗だけ。
そのとき、銀行から通知が届く。
【口座末尾8876 お取引が制限されました。窓口へお越しください。】
星菜は数秒見つめ、ふっと笑った。
「どうしたの?」
麻里が覗き込む。
「松原真哉……カード止めたのね」
星菜は深く息を吸った。
麻里が目を剥く。
「は!? 何それ、どういうつもり!?」
「簡単よ。考え直して帰ってこいってこと」
「経済止めたら戻ると思ってるの?」
麻里は怒りで顔を赤くする。
「あなたを何だと思って――」
何だと思っているのか。星菜にも分からない。
「どうでもいいわ。もともと、あの人のお金を使うつもりもないし」
彼女は手を見た。
この手で、かつて世界を驚かせた。今だって描ける。
落ち着いた頃、麻里が気分転換を提案する。
「明日、週末でしょ。私がおごる。中心街に新しいフレンチができたんだって。行こうよ」
星菜は頷いた。
……
翌晩。二人がフレンチレストランで案内され、席に着いた瞬間――聞き覚えのある声が耳に刺さった。
「金賞、おめでとう」
松原真哉。
星菜の体が固まり、ゆっくり振り返る。
少し離れた席に、松原真哉、聖矢、白石菜々子、そして菜々子の友人たちがいた。
テーブルには豪華な料理、中央にはケーキ。
『菜々子優勝おめでとう!』と書かれたプレート。
三人が並ぶ姿は、本物の家族みたいだった。
聖矢はカニを頬張りながら言う。
「やっぱり菜々子さんが一番! ママはこういうの食べさせてくれないもん!」
菜々子が笑って問う。
「聖矢は、私とママ、どっちが好き?」
「菜々子さん!」
迷いなく答え、そして小さく俯く。
「菜々子さんが僕のママだったらいいのに」
菜々子は黙って真哉を見る。
「真哉も、そう思う?」
男は少し沈黙して、冷えた声で言った。
「……ああ」
胸が針金で締め上げられたみたいに痛い。唇の色が薄くなる。
星菜の視線に気づいたのか、松原真哉がこちらを見た。
