第3章 心が裂けた
小泉星菜の姿を認めた瞬間、松原真哉は一瞬きょとんとし、次いで眉間に深い皺を刻んだ。
一方の聖矢はぱっと目を輝かせる。
「ママ! ママもここでご飯なの?」
小泉星菜は喉の奥がきゅっと締まり、どうにか笑みの形だけを作った。
「じゃあ一緒に食べようよ! パパ、菜々子さんにケーキも頼んだんだ!」
白石菜々子は小泉星菜の顔を見つめ、瞳の奥で妬みがひとすじ走った。
背が高く、華やかで、凛とした美しさ。素朴な白いワンピースですら人目を奪う。並ぶたびに、自分が醜いアヒルに見えて仕方なかった。
「聖矢、だめよ。ママはお友だちと来てるの」
白石菜々子は目の陰りを押し隠し、小泉星菜へ歩み寄る。
「星菜さん、奇遇ね」
小泉星菜はただ見返し、何も答えない。
それでも白石菜々子は、困ったように言葉を継いだ。
「誤解しないでね。真哉と聖矢は、私のお祝いをしてくれただけなの。私はいいって言ったのに、真哉が聞かなくて……」
そして、思い出話にすり替える。
「そういえば、真哉って昔から“ちゃんとした節目”を大事にする人よね。私と付き合ってた頃は、どのイベントもプレゼントにサプライズにって」
「星菜さんもそう思うでしょ? もう何年も結婚してるんだし、星菜さんにもきっと同じように――」
笑いが込み上げそうになった。
愛があるかないかなんて、あまりに分かりやすい。松原真哉は一度だって、彼女にサプライズなど用意したことがない。
離れる選択は、間違っていなかった。
小泉星菜は口角だけを上げる。
「それ、何年前の話?」
「今のあなたに、病気で可哀想ってこと以外、彼に気を遣わせる手段がないから? だから過去の栄光を持ち出してるの?」
白石菜々子は言葉を失い、次の瞬間には、泣きそうな顔で委屈を訴えるように眉を下げた。
「星菜さん……どうしてそんな言い方を……」
「もしかして……まだ、私が金賞を取ったこと、怒ってるの?」
金賞――その単語だけで、小泉星菜の拳に力が入る。
そこへ、川島晃が苦笑まじりに割って入った。
「まあまあ、松原夫人。菜々子は体が弱いんだし、真哉が面倒見るのは当然でしょ。それに受賞は実力だし。あなたは専業主婦――」
言い切る前に、小西麻里が噛みついた。
「専業主婦が何よ! 星菜が結婚前どんな人だったか、あんた――」
「麻里」
小泉星菜が手で制し、首を横に振る。
こんな連中に説明する価値はない。
白石菜々子の友人たちまで、面白がるように口を揃えた。
「でも晃の言い方は乱暴だけど、言ってることは間違ってないよね」
「女が専業になると社会と切れちゃう。毎日キッチンと子どもだけ。見識も能力も落ちるのよ」
「菜々子は違う。病気でも創作を続けて、あんな大きい賞を取った。これが新時代の自立した女性の見本」
そして、わざと松原真哉を見る。媚びるような声色で。
「松原社長もそう思いません? 菜々子みたいに才能も根性もある女性こそ、価値がある」
「家で旦那に養われるしかない人は……悪く言うと、“松原夫人”の肩書きが運良く手に入っただけ。自分の力なら、このレストランのドアもくぐれないんじゃない?」
テーブルが、しんと静まり返った。
小泉星菜は松原真哉を見た。
反論してくれるのを待った。せめて眉をひそめるだけでもいい。
――けれど、何もない。
松原真哉は無言のままナイフを走らせ、切り分けたステーキを白石菜々子の前へ置いただけだった。
そうだ。彼は、彼女が傷つくかどうかに興味がない。
小泉星菜は冷たく笑い、友人の女へ視線を向ける。
「あなたの言う“価値”と“能力”の理解、ずいぶん狭いのね」
一語ずつ、針のように落とす。
「家庭を回して、外で戦う夫に後顧の憂いをなくすことは“努力”じゃない?」
「それとも、壇上で他人のデザインを自分のものにして拍手を浴びるのだけが、“自立した女性”に相応しいって?」
白石菜々子の顔から血の気が引く。
「な、何を言ってるの……それは私が描いたのよ!」
「私が嘘をついてるかどうか、心当たりのある人は分かってる」
小泉星菜は白石菜々子を見ないまま、一歩前へ出た。
「松原真哉。聖矢はもうカニを一匹食べてる」
「カニは体を冷やす。あの子の体質じゃ耐えられない。父親なら、これ以上好きにさせないで」
松原真哉はもともと彼女の物言いが気に入らず、顔を冷やす。反論しようと口を開いた、そのとき――。
「やだ! 食べる!」
聖矢が先に声を張り上げた。
「ママ、いい加減うるさい!」
「パパは稼ぐの大変で、菜々子さんは賞取って、みんなで楽しくご飯なのに! それもダメ、これもダメって!」
「ママは何もできないくせに! 何も分かってないくせに! 空気悪くするだけ!」
松原真哉そっくりの瞳が、露骨な嫌悪で満ちている。
小泉星菜の心臓は、見えない手で握り潰されるように痛んだ。
生まれたばかりの、小さく柔らかな体。腕の中で子猫みたいに丸まっていたこと。
熱を怖れて夜通し眠れなかった日々。
先天性の心疾患だと告げられ、声が枯れるまで泣いた夜。
あの日から彼女の人生に残ったのは、たった二つ。
看病と、祈り。
それなのに――何もできない、だと。
小西麻里は、この瞬間ようやく理解した。
小泉星菜が離婚を選ぶ理由を。こんなの、離れなければ自分が壊れる。
言い返そうとした、そのとき。
白石菜々子がワインのグラスを手に近づいてきた。
「星菜さん、怒らないで。聖矢はまだ小さいの」
柔らかな声で杯を差し出す。
「一杯どう? 代わりに私が謝るから」
次の瞬間、白石菜々子がわざとらしく体をのけぞらせた。
ガシャン!
グラスが床に叩きつけられ、砕け散る。倒れ込んだ白石菜々子の手のひらに、破片が食い込んだ。
「菜々子!」
松原真哉の顔色が変わり、飛び込む。
白石菜々子は涙を浮かべ、震える声で訴えた。
「星菜さん……ど、どうして私を突き飛ばすの……?」
小泉星菜は眉を寄せる。
「この店、監視カメラがあるでしょ。こんな幼稚な芝居で私を陥れるなんて、滑稽だと思わない?」
だが言い切る前に、松原真哉の低い声が叩き落とした。
「小泉星菜」
見上げた瞳には、彼女が一度も見たことのない怒りが渦巻いていた。
「お前がただの我儘だと思ってた。まさかここまで悪質とはな」
「言っておく。菜々子に何かあったら……俺はお前を許さない」
そう言い捨て、白石菜々子を横抱きにして店を出ていく。
背中。
白石菜々子の、勝ち誇った目。
心が凍って、ひび割れて、砕け落ちた。
監視カメラすら確認せず、彼は彼女を“有罪”にする。
これが、七年愛し、七年待った男。
聖矢も慌てて追いかけ、すれ違いざま小泉星菜を強く突き飛ばした。
「ママなんて嫌い! 死んじゃえ!」
「もう二度と好きにならない!」
小さな背中が遠ざかる。
小泉星菜はその場から動けなかった。
耳の奥がじんと痺れて、世界の音が消えていく。
――死んじゃえ。
その一言だけが、反響する。
小泉星菜は目を閉じた。
そして開いたとき、瞳は不思議なくらい澄んでいた。
スマホを取り出し、番号を押す。
「デザインコンテストの番組制作チームでしょうか」
「白石菜々子の剽窃疑惑を、実名で告発します」
