第1章

「……い、いや……私の子……!」

分娩台の上で、伊代妃奈は力なく腕を伸ばした。たった今取り上げられたばかりの、全身に血と羊水が張りついた赤子――その顔を一目見る暇すらなく、看護師が素早く抱き上げ、分娩室の外へと連れ去っていく。

痛い。魂を肉体から無理やり剥がされるみたいな痛み。

陣痛の波が来るたび、意識を叩き潰すような激痛が押し寄せ、妃奈の視界は白く滲んだ。耳元では助産師の切羽詰まった声が飛び交っている。

「もう一人は臍帯が首に巻きついてます! 胎児心拍が落ちてる! 今すぐ帝王切開が必要です、庄司奥様、決断を――!」

だが、分娩室の外から返ってきたのは、氷みたいに冷えた声だった。

「助けなくていいわ。あの女と腹の中の役立たずはまとめて処分して。庄司家に跡取りは一人いれば十分よ」

その瞬間、伊代妃奈は呼吸すら止まった。

シーツを握り潰すほどに掴み、かすれる息で絞り出す。

「……な……ぜ……?」

一年前。伊代グループは悪意ある脱税の密告を受け、一夜で破綻した。父は絶望の果てに会社の屋上から身を投げ、母は知らせを聞いたその場で脳出血を起こし、救急車を待たずに息を引き取った。

泣き崩れる暇もなかった。

狼の群れみたいな敵が押し寄せ、伊代家に残った最後の財産まで骨の髄までしゃぶろうとした。

追い詰められたその時、庄司奥様が現れた。

突きつけられたのは、断れない取引――体外受精で、事故で重傷を負い昏睡状態にある庄司若様の子を産め。男児を産んで庄司家の血を繋げ。そうすれば仇敵を片付け、伊代家にかぶせられた汚名も洗い流してやる、と。

伊代妃奈は信じた。

残ったすべてを賭け、十月十日を耐え、命を削るような出産に挑んだ。

なのに、最初から庄司奥様に約束を守る気などなかったのだ。

見事なまでの算段。見事なまでの用済み切り捨て。

自分も、腹の中のまだ生まれていない子も――捨てられる道具だった。

今日の辱め、子を奪われた恨み。

伊代妃奈は、決して忘れない。

――七年後。Y市空港。

冷ややかで美しい東洋の女が、陶器みたいに整った男の子の手を引いて到着ロビーへ降り立つ。通りすがりの人々がざわめき、どこかの大物女優かと視線を集めた。

生まれつきの白い肌に、細い体躯。そこに艶やかな顔立ちが乗れば、目を奪われない方が難しい。

伊代妃奈は周囲の好奇の視線など気にも留めず、隣の子へ顔を傾ける。

「団子、まだ眠い?」

伊代雲光は小さな顔をきゅっと引き締めたまま言った。

「眠くない。腹減った」

伊代妃奈はふっと笑い、纏っていた淡さがほどけて眉目が柔らぐ。小さな手を軽く揺らしてやる。

「じゃあ早く帰ろうね。ポケットのビスケット、まだ残ってる?」

うなずきが返ってくると、褒めるように言葉を添えた。背伸びして大人ぶる癖のある小さな子は、耳のあたりを薄く赤くする。

ママはいつも、僕をからかう。

伊代雲光は無表情のまま内心でそう結論づけた。

「いい子」

従順な息子を見つめながら、妃奈の胸の奥が少し重くなる。庄司家に連れて行かれた、もう一人の息子。相手は巨大な権勢を持つ家だ。奪い返すのは容易ではない。けれど、たとえ望みが薄くても、諦めるつもりは一片もなかった。

七年。海外で、伊代家に残った資産を元手に身を潜め、力を蓄え続けた。妥協するためじゃない。

弁護士が庄司家の資料をまとめている最中だ。焦るな。七年待てたのなら、あと数日など誤差でしかない。

今回の帰国は、まずもう一人の子の現状を探るため。庄司家があの子をどう扱っているか――それで庄司家への態度を決める。

空港出口では、かつて伊代家に仕えた運転手の長島が車の脇で待っていた。

恭しく頭を下げる。

「お嬢様」

あの時、長島が病院へ駆けつけて妃奈を連れ出してくれなければ、彼女と子は路頭に迷っていたはずだ。

伊代雲光が無事に育ったことは、妃奈にとって数少ない慰めでもあった。

妃奈は雲光を長島に預け、いくつか言い聞かせると、長島へ告げた。

「長島さん、団子をお願い。私、ちょっと病院に寄ってくる。終わったら合流するから」

長島は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「お任せください、お嬢様」

長島の車が空港を出ていくのを見送ってから、妃奈は別の出口へ向かった。病院の迎えがそちらに来るはずだった。

角を曲がった、その瞬間――

どんっ。

腕の中へ、濡れ鼠みたいな小さな体が突っ込んできた。水滴が服に移り、ひやりと冷たい。

「団子?」

妃奈は反射的に抱きとめる。「どうして長島さんと行かなかったの?」

何度も顔を見返して、違和感に気づく。

服が違う。全身びしょ濡れだ。

「その服、どこで――どうしてこんなに濡れてるの! 風邪ひいたらどうするの? 熱出したら……!」

ところが、腕の中の「伊代雲光」は、いつもの落ち着きがなかった。小さな手で彼女の胸元を必死に掴み、顔を押しつけ、涙声でしゃくりあげる。

「……注射、やだ……あのオバサンに会いたくない……隠して……」

妃奈の背筋がぞくりとした。

団子は小さい頃から注射を怖がらない。大人びた顔で平然としている子なのに、ここまで怯えるなんて。

何があったの。

心臓がきゅっと締まる。背を撫で、柔らかく宥めた。

「大丈夫、大丈夫。ママがいる。誰にも、嫌なことを無理やりさせないよ」

庄司沢弥は、温かい腕の中で呆然とした。どうしてだろう。涙が目の奥に溜まってくる。

背後からは、ボディガードたちの切迫した声がかすかに聞こえる。まだ、自分を探している。

庄司沢弥はぎゅっと抱きつき、目の前の見知らぬ女に、なぜか生まれつきの親しみを覚えた。

口が勝手に言葉をこぼす。

「ママ――」

その呼び方に、妃奈の胸がふわりとほどけた。

もっと優しい声で言ってしまう。

「団子、いい子。ママは心配しただけ。離れたくないなら、ちゃんと言って。次は勝手に走って行ったらダメ、いい?」

黒服のボディガードが何人も駆け抜けていくが、寄り添う母子には気づかなかった。

庄司沢弥は嬉しくてたまらない。目の前の人が本当に自分の母なのかどうかも、空港へ逃げてきた理由も、全部どこかへ飛んだ。

「ママ、腹減った――」

妃奈は鼻先を軽くつつく。

「さっきも言ってたね。団子、お着替えして、それからサンドイッチ買おう。食べたら病院で人に会うけど、いい?」

幸い、スーツケースに団子の着替えが二着ある。

庄司沢弥は新しい呼び名を当然のように受け入れ、ただただママの優しさに溺れていた。

新しいママ、いい。

臭い女、悪い。

おばあちゃん、悪い。

パパも、悪い。

誰も慰めてくれない。病気になったら白衣が腕を刺して、部屋に閉じ込めて、言うことを聞かないって怒鳴る。

妃奈は子を連れてトイレで着替えさせる。抱き上げられ、鏡の中で綺麗になった自分を見た沢弥は嬉しそうに笑い、くるりと妃奈の頬へちゅっと口づけした。

肩にしがみつき、サンドイッチへ急かす。

妃奈の見えないところで、沢弥は唇を尖らせた。

ママの本当の息子が、少し羨ましくて――それ以上に、羨望だった。

自分には、母のふりをする嫌な女しかいないのに。

沢弥は望み通りサンドイッチを食べた。簡単なトマトと卵とハム。なのに夢中で頬張り、普段の偏食ぶりが嘘みたいだった。

――監視室。

黒服のボディガードが一列に並び、頭を下げたまま息を殺している。

背が高く整った顔立ちの男がソファに腰掛け、モニターに映る息子の食べ方を不機嫌そうに睨んだ。

「見守れと言ったはずだ。これが見守りか?」

先頭の男は首筋に汗を伝わせた。

「申し訳ありません、社長。私どもの不手際です」

庄司景悠は疲れたように眉間を揉む。

「連れ戻せ」

「……あの女は……」隊長が探るように言う。

庄司景悠の声は低く、よく通るのに冷え切っていた。

「通報しろ。児童誘拐だ」

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