第2章

伊代妃奈は団子を抱いて車を降り、目の前の病院を見上げた。すると、腕の中の子どもが露骨に身をこわばらせる。

「どうしたの? どこがつらい? ママに言って」

庄司沢弥は唇を尖らせ、目からぽろぽろ涙をこぼした。

「ママ……こわい……」

白衣の人にまた腕を刺される。

また部屋に閉じ込められる。

その恐怖が喉の奥にねっとり絡みついて、離れない。

玄関で出迎えた院長が、子どもの顔を二度見して目を丸くした。

――庄司家の若様に、やけに似ている。

だが伊代妃奈は何も知らない。ただ首をかしげるばかりだった。団子はふだん、ここまで病院を嫌がらないのに。

院長が先に口を開く。

「お子さんは院内の芝生で遊ばせておきましょう。二人つけます。監視カメラもありますし、こちらは採用の手続きを急いで済ませます」

伊代妃奈は胸にしがみついて嗚咽する息子へ、そっと問いかけた。

「団子、外でママを待てる? すぐ戻るから」

庄司沢弥は長く迷ってから、小さくうなずいた。護工に手を引かれ、しぶしぶ離れていく。

「こちらへ」院長が促す。

伊代妃奈は頷いてついて行き――その背後で、庄司沢弥がまた泣き出し、背の高い端正な男に抱き上げられて連れて行かれる光景を、見なかった。

手続きが終わった頃には、すでに一時間が過ぎていた。

行政棟の入口を出た瞬間、警官が二人、目の前に立ち塞がった。

「あなたは児童誘拐の疑いがあります。署までご同行ください」

伊代妃奈は眉をひそめる。

「息子が待ってるんです」

「息子? 本当にそうですかね」警官は一歩前へ出て、腰のあたりに手を添えた。「署で話を聞きます」

……何の話?

伊代妃奈の頭が真っ白になる。

――警察署。狭く、息苦しい取調室。

伊代妃奈は怒りで、笑いさえ込み上げた。

「私が誘拐? あの子は私の実子よ!」

だが警官は取り合わず、机を叩く。

「通報が入ってます。空港で子どもを騙して連れ出し、そのまま病院へ連れて行った。目的があるからだろう! 嘘をつくな!」

伊代妃奈も机を叩き返した。

「だから言ってるでしょう! あの子は私が育ててきた大事な息子! スマホのロック画面は息子の写真! バッグにツーショットもある! スーツケースには成長アルバムだって入ってる! 何を根拠に私を貶めるの!」

警官たちは視線を交わし、確認へ走らせた。

机に並べられるスマホ、写真、成長アルバム――

……すべて本物だった。

じゃあ庄司家は何を通報した?

その時、外から別の警官が駆け込んできて、低声で告げた。

「庄司家が通報を取り下げました!」

取調室に気まずい空気が落ちる。

警官は咳払いをして言った。

「誤解があったようです。帰って結構です」

伊代妃奈は胸の奥で煮えたぎるものを押さえつけ、冷たい目で私物を返されるのを見ていた。

「……息子は?」

警官は頭を掻く。

「家族の方が連れて帰りましたよ」

庄司家の実力者が自ら抱えて連れ出した――そんな事実を、伊代妃奈が知るはずもない。

国内事情に疎い彼女は、警察が長島おじさんへ連絡して団子を連れ帰らせたのだろう、と信じた。

外は日差しが強い。

伊代妃奈は長島おじさんに電話をかける。

「団子、家にいる?」

『おりますよ。長島おばさんがリビングで遊んでます。ご飯もできてます、帰ってきたと思って』

「ちょっと手間取ったの。今帰ってる」

帰宅して、リビングで絵本を静かに読む「団子」を見た瞬間、ようやく胸のつかえが落ちた。

「ママ!」

子は顔を上げて一言だけ言い、また本へ視線を戻す。

伊代妃奈は笑いながら抱き上げようとして――どこか違和感を覚えた。普段なら、帰宅した途端に手を止めて迎えに来る。表情は薄くても、目が光るのに。今日のこの子は……静かすぎる。距離がある。

「お嬢様、今日の団子ちゃんはほんとにお利口で。帰ってきてすぐ『汚れた』って言うから、お風呂に入れました」長島おばさんが果物を運びながら笑った。

風呂?

伊代妃奈の胸が、理由もなく跳ねる。団子は軽い潔癖症だが、帰宅即、そこまで焦ることはない。

――考えすぎだ。警察署の件で神経が尖っているだけ。

そう言い聞かせ、頭を撫でた。

「いい子、団子。ママ帰ってきたよ。置いていったわけじゃないの。許してくれる?」

伊代雲光は不思議そうに頷く。

「怒ってない」

ママ、分離不安なのかな。数時間離れただけでこんなに。

伊代雲光は淡々とそう結論づけた。

一方、庄司家は大混乱だった。

庄司景悠は医師が息子の部屋から出てくるのを見て眉を寄せる。医師は疲れ切り、服も乱れていた。

「……まだ診せないのか」

医師は苦笑した。

「『ママに会う』の一点張りで」

庄司景悠は、隣で泣き崩れるように座る美しい女に目を向ける。

さっき息子に追い出されたばかりだ。

医師が首を振る。

「新谷嬢ではありません。若様が言ってるのは『新しいママ』です」

生母を名乗っている新谷木雪は、凍りついた。泣くことすら忘れ、信じられない顔で見上げる。

恩知らず。

七年間、毎日機嫌を取り続けたのに、どこの馬の骨とも知れない女に負けるなんて。

――あの子の亡くなった母親と同じ。胸糞が悪い。

庄司景悠の目が冷たく沈む。疑念も混じった声。

「……どんな手を使った」

警察から解放させただけじゃない。今はこの女でなければ駄目だと、拒食までしている。診察すらさせない。

「調べろ」庄司景悠は秘書に命じた。「あの女の素性を」


伊代妃奈は忙しかった。

病院が海外の高待遇から引き抜いたのは、彼女の神業のような技術が目当てだ。

国際的に名を知られ、帰国直後から予約が殺到した。立て続けに手術をこなし、瀕死の患者を何人も救って評判は跳ね上がり、診察希望者は増える一方だった。

院長がある日、伊代妃奈のもとへ来た。

「伊代先生、VIP専用の窓口を……大口のお客様を優先して――」

伊代妃奈は即座に退ける。

「命に優先順位があるんですか」

「私の前では平等です。私が気に入らないなら、よそへ移ります」

院長は慌てて言葉を濁した。「いえ、冗談ですよ、ただの提案で……」

三日後、伊代妃奈の診察室に「大物」が来た。

ボディガードが室内を押さえ、秘書が付き従う。背が高く引き締まった男が高級スーツに身を包み、冷えた顔で入ってきた。圧が重い。

伊代妃奈は淡々と、他の患者と同じ目で言う。

「座って。どこが具合悪い?」

庄司景悠は座らない。無感情な目が、査定するように彼女を撫でた。

「見ればわかるだろ。名医なんだろう?」

明らかに喧嘩腰だ。

伊代妃奈のキーボードを叩く指が止まり、視線が上がる。

「庄司さん。私は内科医です。精神科医じゃない。精神科なら二階です。専門の先生のところへどうぞ」

脳の病は、悪いけど治せない。

庄司景悠は怒らなかった。目だけが深く冷える。

「俺が誰か、わかってるのか」

伊代妃奈は乾いた笑いを落とす。

「庄司さん。庄司グループの社長でしょう。知らない人なんていませんよ」

それに、この顔――灰になってもわかる。

息子の生物学上の父親だ。

庄司景悠は短く言った。

「胃が痛い」

伊代妃奈は口角を引いた。

「検査へ。胃透視とエコー。問題なければ次から来なくていいです」

庄司景悠の口元が冷たく歪む。

息子を拐った女が、俺に不機嫌だと?

伊代妃奈は庄司景悠の内心など構わず、次の番号を呼んだ。

入ってきた老人が庄司景悠をせかす。

「次はわしだ。どいてくれ」

庄司景悠は立ち上がって外へ出た。

背後から、彼女が他の患者へ向ける丁寧で柔らかな声が聞こえ、足が一瞬止まる。

振り返ると、横顔だけが見えた。

妙に見覚えがある。

調べても調べても、公開情報しか出てこない女。

庄司景悠の目がわずかに細まる。

――こいつは、何者だ。

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