第3章
庄司景悠は秘書とボディガードを連れて立ち去り、それきり二度と戻ってこなかった。
伊代妃奈は構っていられない。彼女も忙しい。
庄司家の人間は疑り深く、冷たい。できることなら、庄司景悠の視界に早々に入るのは避けたい。
数日前、理由もわからないまま警察に連れて行かれた件を思い出し、妃奈の目が重く沈む。今日のあれが、本当に「胃が痛い」だけであることを祈った。
この日は当直だった。退勤する頃には、外はすっかり夜だ。
病院の正門を出たところで、街灯の下に立つ長身の男が目に入る。
黄ばんだ光が頭上から落ち、指先には煙草。眉目には薄い倦怠と苛立ち。
少し離れた場所に黒い車が停まり、ボディガードの視線が鋭い。
数秒見ただけで、状況は読めた。
伊代妃奈は目も合わせずに横をすり抜けようとして――手首を掴まれる。
華奢な骨が痛いほど細い。庄司景悠は無意識に思った。……痩せすぎだろ。
伊代妃奈は振り返る。夜闇の中で、星みたいに光る瞳。
「放して。じゃなきゃ性嫌がらせで通報する」
庄司景悠は吸い殻を放り、革靴で踏み潰した。
「伊代嬢のほうが被害者ぶるのか。俺の息子を拐っておいて。俺が手加減しなければ、伊代嬢はもっと出られなかったはずだ」
――やっぱり、あの日の通報はこいつ。
妃奈の胸がひゅっと冷えたが、顔には出さない。
庄司家。
庄司奥さんも庄司景悠も、根っこは同じ。悪辣で、手段を選ばない。
今日は警告か。子どもに手を出すな、と。
伊代妃奈は目を伏せる。
「帰国したばかりで、庄司家に恨まれる覚えはありません」
庄司景悠が鼻で笑う。
「覚えがない? 息子を拐ったくせに、よく言えるな」
距離が詰まり、煙草の匂いが鼻先に触れる。
伊代妃奈は眉をひそめ、もう片方の手で口元を覆って一歩退く。声が掌にこもり、少し幼く聞こえた。
「……頭おかしいんじゃないの。証拠もないくせに適当に言わないで!」
庄司景悠の耳の奥が妙にざわつき――次の瞬間、その言葉が火をつけた。
「大した口だな。本気でやらないとでも?」
伊代妃奈の瞳が鋭く縮む。
足が動いた。男の革靴を思い切り踏みつけ、さらに脛を蹴り上げる。
「っ……!」
庄司景悠が短く呻き、手が緩んだ。
その隙に妃奈は退き、ボディガードが動きかけた瞬間、バッグを庄司景悠へ叩きつけて走り出す。
「病気なら治しなさいよ。精神病は診ない!」
タクシーを捕まえて飛び乗り、走り去った。
ボディガードが追いかけようとするのを、庄司景悠が止める。
彼は地面に落ちた写真を拾い上げ――瞳孔が震えた。
そこに写っていたのは、伊代妃奈と「庄司沢弥」のツーショット。
背景はぼやけた緑。どこでも撮れそうな一枚。
だが、二人は眩しいほど笑っていた。
それが刃のように、庄司景悠の胸の奥を抉る。
沢弥が、この女と写真を撮り、こんな顔で笑うなんて――。
息子が大きくなってから、こんな無邪気な笑いを見たことが、どれほどあった。
――帰宅すると、妃奈の身体を縛っていた糸がようやく緩んだ。
寝室へ行き、眠る息子を確認してから、そっとドアを閉める。
廊下で扉に背を預け、そのまま座り込んだ。
弁護士から届いたメールを開くと、指先が小さく震える。
怖いものはない。
ただ、子を取り戻せない未来だけが怖い。
庄司景悠の今夜の反応は妙だった。
彼は、彼女が生母だと知っているのか。だから通報し、警告した?
庄司家ならやりかねない。
弁護士は最短でも三か月後に日本へ来ると言っていた。
妃奈は息を吐き、思考を整理する。庄司家に目をつけられた以上、対策が要る。
スマホが震え、外祖母からメッセージが届いた。
【妃奈、助けが必要なら立花家は皆あなたの味方よ。家族なんだから、ひとりで抱え込まないで】
胸の奥が少しほどける。
自分は一人じゃない。支えてくれる場所がある。
――翌日。院長が妃奈のもとへ来た。
「伊代先生、昨日の患者さんからクレームが入りまして……名指しで、訪問して謝罪を、と……」
妃奈は目を上げる。
「庄司、ですか」
院長は気まずそうに頷く。
「ええ……当院に多額の寄付もしてくださる大口で……支援を受けている患者さんも多い。資金が止まると……」
命を盾にするのか。庄司家らしい。
「向こうは、ただ謝罪に来てほしいだけだと」
「わかりました、院長」
妃奈は眉間を押さえた。「伺います」
庄司家は桁が違った。山ひとつを丸ごと敷地にしている。
古くからの名家で、戦時中も軍部に取り込まれず、資産の多くを守り切った――迎えの運転手が誇らしげに語る。
伊代妃奈は聞き流しながら、目に薄い嘲りを宿した。
確かに巨富。一步ごとに金が見える。庭木一本ですら、いくらするのか想像もつかない。
だが、金も権も、彼女の印象は変えない。
通され、座り、茶を出され――待つ。
庄司景悠は現れない。
さらに一時間後、執事が申し訳なさそうに現れた。
「失礼いたします、伊代嬢。旦那様が急用で、もう少々お待ちいただけますか」
妃奈は表面だけ丁寧に笑い、目は冷えたまま頷こうとした――背後から女の声が落ちる。
「あなた、誰?」
振り返ると、精巧な人形みたいに整った女が立っていた。執事が恭しく言う。
「新谷嬢」
新谷木雪は外部の人間がいると知らず、品定めするように妃奈を上から下まで眺め回す。
「お名前は?」
伊代妃奈は答えない。執事が代わりに説明した。
「元康病院の伊代先生です」
新谷木雪の作り笑いが消える。
「ふうん、医者。用がないなら早く帰って」
景悠に近づく女など腐るほど見てきた。こいつも同類――そんな目だ。
「沢弥は? まだ食事を拒んでるの?」
「はい。若様はまだ昼食を……」
若様。
その呼び方に、妃奈の瞳がわずかに動いた。
新谷木雪の顔に苛立ちが一瞬走る。それを妃奈は見逃さない。
「何歳よ。ご飯ごときで人に三顧の礼を取らせるの?」
執事がやんわり諫める。
「新谷嬢、若様の母親でいらっしゃいます。若様が聞いたら……」
新谷木雪はすぐ優しい顔に戻した。
「そうね、私が見に行くわ」
そして妃奈へ鋭く言う。
「まだいたの? 人を呼んで追い出させたい?」
伊代妃奈は冷たい顔で踵を返した。
これ以上ここにいるのは危険だ。
執事の言う若様が自分の子である可能性が高い。
その新谷という女は、生母の顔をしながら、子をあんな目で見る。
――庄司家で、あの子はそんな扱いを?
だが今は時機が悪い。単身では突っ込めない。
まずは、子の名が「沢弥(たくや)」だと知れただけでも収穫だ。
主屋の門を出て庭へ出た、その時。
小さな声がした。
「ママ――」
伊代妃奈ははっとして振り返り、声の方を探す。
低い植え込みの中。白いシャツを着た伊代雲光が、汚れた顔でにこっと笑い、甘えるように呼んだ。
妃奈の視界が暗転する。慌てて抱き上げ、驚きと恐怖で叱る。
「団子! ここは庄司家よ! どうして来たの! 見つかったら――!」
彼女は、雲光がなぜここにいるのか疑わなかった。帰国してから、いつも以上に甘えたがっているのだと思った。
双子のもう一人が生きていると庄司家が知れば、厄介さは増す。
その想像だけで背筋が凍る。
そこへ、遠くから低い声。
「……人は?」
庄司景悠の声だ。
「伊代嬢はお帰りになりました」
伊代妃奈の血の気が引いた。
――最悪のタイミングで、戻ってきた。
