第4章 兄弟の再会
庄司景悠が戻ってきた!
考える暇なんてない。伊代妃奈は生け垣の影に潜んでいた小さな身体を、一息に腕の中へ掬い上げた。
「ママ、早く!」
抱きしめた子のほうが、彼女以上に切迫していた。
伊代妃奈は子どもを抱えたまま、庭の反対側へと一目散に駆け出す。庄司家の屋敷は広すぎる。道なんて分かるはずもない。直感だけを頼りに、人の少なそうなほうへ――。
「こっち!」
腕の中の『団子』が、ふいに指を差した。
視線の先には、背の高い緑の壁。密に刈り込まれた植栽の根元に、目立たない切れ目がある。庭師用の抜け道みたいな細い通路だ。伊代妃奈は迷わずそこへ身を滑り込ませた。
くねくねと続く小径を進むうち、外で飛び交っていたボディガードの怒鳴り声と、ばたばたと迫る足音が、少しずつ遠ざかっていく。
伊代妃奈は息を切らし、ようやく立ち止まった。
腕の中の子は泥だらけで、顔まで煤けている。驚きと恐怖が一気にこみ上げた。
「雲光! どうやってここまで来たの!?」
ここは庄司家だ。警備は厳重。七歳の子が、誰にも気づかれず入り込めるはずがない。
庄司沢弥は、叱られたと思ったのか肩をすくめ、か細い声で言った。
「ぼく……ずっと、ママのあと……ついてた」
その瞳。自分に似すぎているせいで、伊代妃奈は怒りを吐き出せなかった。残ったのは、短い溜息だけ。
今は追及している場合じゃない。
この厄介な場所から、一刻も早く離れる――それが先だ。
――一方、屋敷の中。
執事が腰を折り、控えめに告げる。
「旦那様。伊代嬢は長くお待ちでしたが、新谷嬢に……お帰りを促されまして」
庄司景悠の顔が沈んだ。
今日はわざわざ時間を作った。断食して抗議する息子を、あの女に一度落ち着かせるつもりだったのに。
新谷木雪は自分の息子すら扱えないくせに、よその女が息子の機嫌を取っている?
「沢弥は?」
庄司景悠は苛立ちを押し殺して問う。
「若様はお部屋に。出てこられません」
庄司景悠はそのまま二階へ上がり、息子の部屋の扉を開けた。
――空っぽだ。
氷みたいな声が落ちる。
「……どこだ」
使用人たちが屋敷中を走り回っても、答えは同じだった。若様がいない。
「役立たずめ」
庄司景悠は足早に監視室へ向かった。
数分前。
モニターには、伊代妃奈が小さな影を抱きかかえ、庭の一角の切れ目から逃げ出す姿が映っていた。
また、あの女か。
一度なら偶然。二度目は、故意だ。
庄司景悠の瞳の奥で、怒りが渦を巻く。
「旦那……」隊長が震え声で口を開く。
「探せ」庄司景悠は歯の隙間から絞り出した。「あの女を引きずり出せ。あと――調べろ。あいつがこの七年、海外で何をしていたか。全部だ。庄司家の人間に二度も手を出して、無事で済むと思うな」
――帰り道。
伊代妃奈は長島おじさんに電話を入れた。長島おばさんと一緒に買い出しへ行っていて、戻りは遅くなるらしい。
通話を切ってから、隣に背筋を伸ばして座る『団子』へ目をやる。白いシャツは汚れで灰色になり、見るからに惨めでかわいそうだ。
それでも、伊代妃奈の胸の中では疑念が膨らむ一方だった。
団子は賢い。でも、基本は大人しくて静かな子だ。自分のあとをつけ、名門の屋敷に潜り込むなんて――普段の彼ならしない。
今日のこの子は、あまりにもおかしい。
車がマンションの下に停まる。伊代妃奈は手を引いて急いで上がり、玄関を入るなり浴室を指差した。
「早く。服脱いで、お風呂。汚れ落として」
庄司沢弥は見慣れない空間に少し身構えたが、好奇心のほうが勝ったのか、素直にこくりと頷く。
不器用にシャツを脱ごうとする姿を見て、伊代妃奈はつい口を滑らせる。
「ママが手伝おうか?」
「いらない!」
庄司沢弥は反射みたいに拒否し、スーツケースから出された着替えを抱えて寝室へ駆け込んだ。
「ぼく、できる!」
ばたんっ。
ドアが勢いよく閉まる。
伊代妃奈は苦笑し、子どもが大きくなって秘密ができたのだろうと流した。
出てきたら、今日のことをちゃんと聞こう――そう思っていた。
――寝室。
庄司沢弥は服を抱えたまま、きょろきょろと部屋を見回した。温かな雰囲気。机の上には見たことのない本や模型が並んでいる。
その時。
机の向こうから、小さな頭がすっと現れた。
庄司沢弥の動きが止まる。
分厚い『天体物理学導論』の陰から顔を上げたのは、伊代雲光。
入口に立つ庄司沢弥と、まるで鏡みたいに同じ顔が、同じ目の色で向かい合った。
片方は泥だらけの白シャツ、顔も汚れて子猫みたい。
もう片方は清潔な部屋着で、淡々としていて、埃ひとつついていない。
二人は言葉を失って固まった。
先に口を開いたのは、伊代雲光だった。落ち着いた声で、短く。
「……君、誰?」
庄司沢弥は一歩引き、抱えた服に力を込める。警戒と戸惑いが混じった目で、ぎこちなく名乗った。
「ぼくは……庄司沢弥。君こそ誰? なんで……ぼくのママの家にいるの?」
「ぼくのママ」
その言い方に、子どもらしい独占欲が滲む。
伊代雲光の眉が、わずかに動いた。
「伊代雲光。ここはぼくの家」
庄司沢弥が呟く。
「伊代……雲光……?」
「ママは伊代妃奈」伊代雲光が付け足す。
庄司沢弥も、引かない。
「パパは庄司景悠」
二人の呼吸が、同時に詰まった。
空港で抱きしめてくれた温かい腕。
庄司邸で見た、必死に逃げていく背中。
そして七年間、母が時折自分の顔を見て、遠くにもう一人の子がいると囁いたこと。
散らばっていた破片が、一気につながる。
伊代雲光は目の前の少年を見据え、疑問ではなく断定で言った。
「……ぼくら、双子だ」
庄司沢弥の目が一瞬で赤くなる。
やっぱり。あの優しい人は、本当に――。
悔しさと、突然の幸福が入り混じって、涙が勝手に溜まっていく。
こんこん。
ドアが軽く叩かれた。
外から、伊代妃奈の柔らかな声。
「団子? 着替え終わった? イチゴ洗ったよ。甘いよ」
二人の身体が、同時に硬直した。
