第5章 あの女はなぜまだ生きている!

庄司沢弥の顔から血の気が「さっ」と引いた。伊代雲光はすかさず人差し指を唇に当てて『しー』の合図を作り、声を落として早口で言う。

「……ママにバレたらダメ」

庄司沢弥は必死にうなずき、声にならないまま唇だけを動かした。

「……帰りたくない」

伊代雲光の胸が、理由もなくふっとゆるむ。庄司沢弥の腕の中にある、自分のきれいな着替え。次いで、庄司家から着てきた庄司沢弥の泥だらけのシャツへ目をやった。

「……交換しよう」

「こうかん?」庄司沢弥はきょとんとする。

「君はここに残って、俺になる」伊代雲光は庄司沢弥を指し、それから自分を指した。「俺が庄司家に戻って、君になる」

庄司沢弥の目が、ぱっと光った。

「団子?」ドアの外で、伊代妃奈がもう一度呼ぶ。

「急いで」

伊代雲光は余計なことは言わない。庄司沢弥の腕から着替えをひったくるように受け取り、汚れたシャツのボタンを留めながら矢継ぎ早に言い含めた。

「いいか。ママは君を『団子』って呼ぶ。何か聞かれても、喋りすぎるな。うなずけ。あと――頭撫でられるの、避けるな」

庄司沢弥は必死に覚え込む。

「俺はクローゼットに隠れる。君は出ろ!」

伊代雲光は大きな衣装棚の扉を引き、すっと中に身を滑り込ませた。

庄司沢弥はドアの前に立ち、そっとノブを回して開ける。

廊下には、真っ赤なイチゴを小鉢に盛った伊代妃奈が立っていた。

「洗えた? ほら、食べてみて。甘いよ」

伊代妃奈は目の前の「団子」を見て、言葉にできない違和感を覚えた。いつもみたいに力が抜けていない。

「どうしたの?」器を置き、額の髪を整えようと手を伸ばす。「今日のこと考えてる? 大丈夫。もう終わったよ。ママがいる」

指先が髪に触れた瞬間、庄司沢弥の身体がびくりと引けそうになる。だが、伊代雲光の言葉を思い出して踏みとどまり、撫でられるままにした。

伊代妃奈の胸が、とろけるみたいに柔らかくなる。怯えているのだと勝手に決めつけた。

「はい、イチゴ」一番大きい粒を口元へ運ぶ。

庄司沢弥は口を開いた。酸味と甘味がぱん、と弾ける。今まで知らなかった、家の匂いのする甘さ。

「……ママ」

小さな声には、自分でも気づかないほどの甘えと満足が滲んだ。

伊代妃奈は笑って、もう一粒。

「おいしいなら、もっと食べようね」

彼女は気づかない。今日の「団子」の目が、いつもよりずっと明るいことに。

――クローゼットの中。

伊代雲光は扉の隙間から、外の温かなやり取りをじっと見ていた。母と弟の小さな笑い声が耳に届くたび、拳がきゅっと握り締められる。

今、考えるべきは一つ。

この格好のまま、誰にも怪しまれず庄司家へ戻ること。そして庄司景悠という――「父」に会うこと。

弟がこの七年、どんな日々を生きてきたのか。自分の目で確かめる。

――庄司家。

使用人たちは頭を下げ、息まで小さくしていた。

「旦那様、捜索を増員しました。半径5km内の監視映像も手配しております」秘書がそばで報告する。

黒いロールスロイスが庭へ滑り込む。

車から降りてきたのは、和服を纏った、貫禄のある婦人だった。

「何なの、みんな突っ立って。葬式みたいな顔して」庄司夫人は玄関に入るなり眉をひそめた。「沢弥は? 私が戻ったのに、祖母の私から逃げる気?」

庄司景悠は表情ひとつ変えない。

「沢弥は連れ去られた」

「……は?」庄司夫人の声が跳ね上がる。「誰がそんな度胸で庄司家に手を出すの!」

庄司景悠は答えず、スマホを差し出した。

画面には、笑う女と、笑う子ども。背景はぼやけた緑、陽射しは柔らかい。

庄司夫人は苛立ち混じりに一瞥し――次の瞬間、雷に打たれたように硬直した。

顔色が「さっ」と真っ白に変わる。

「……この女……死んでなかったの……? そんな……ありえない……!」

室内が凍りつく。

庄司夫人は自分の失言に気づき、慌てて取り繕おうとした。

「ち、違う……そういう意味じゃ……」

「知ってるのか」庄司景悠が即座に詰める。「誰だ」

庄司夫人は顔を背け、息子の目を見られない。

「何の話か知らないわ! 頭のおかしい女よ、景悠、騙されないで! 子どもを利用して庄司家から金を引き出すつもりなの!」

庄司景悠は、母が何かを隠していると確信した。だが今はそれどころじゃない。スマホを引き、短く言う。

「言わないなら、俺が直接聞く」

秘書から送られてきた住所情報は、すでに手元にある。

沢弥を取り戻す。それが最優先だ。

庄司景悠は大股で出ていった。

――一方、伊代妃奈のマンション。

伊代妃奈と「団子」が寝室を離れた瞬間、クローゼットの扉が音もなくわずかに開く。

伊代雲光が滑り出た。

状況はだいたい掴めた。戻らなければならない。

窓辺へ寄り、下を覗く。

庄司景悠の黒いベントレーが、殺気立った気配のまま停まっていた。車から降りてきた長身の男――庄司景悠。

今ここでロープで降りたら、わざわざ捕まりにいくようなものだ。

伊代雲光は素早く縄を外し、別の手段を選ぶ。

その時、リビングで買い物袋の音がした。長島おじさんと長島おばさんが、大包小包を提げて帰ってきたのだ。

「お嬢様、お帰り!」長島おばさんが伊代妃奈を見るなり笑う。「団子ちゃんは? 今日はすっごくお利口だったって聞いたから、ご褒美あげなきゃねえ」

庄司沢弥は背筋を伸ばして座っていた。褒められ、耳の先がじんわり赤くなる。

伊代妃奈は荷物を受け取りながら言う。

「今、パズルしてる」

「この子、静かすぎるのよねえ」長島おばさんはお菓子を庄司沢弥の前へ置いた。「団子、下の庭行こ。さっき綿あめ買ってきたのよ。好きでしょ?」

庄司沢弥の目がぱっと輝き、反射で伊代妃奈を見上げる。

伊代妃奈は微笑んでうなずいた。

「行っておいで。遠くまで行かないでね」

「はーい!」

長島おばさんは手を引いて出ていった。

伊代妃奈は買い物を片付けながら、シャワーでも浴びようとする。今日はいろいろありすぎて、頭がぐちゃぐちゃだった。

その時――

どん、どん、どん。

ノック。

鍵を忘れたのだと思い、伊代妃奈はドアを開ける。

そこにいたのは庄司景悠だった。昼のスーツではなく暗い私服。それでも圧はまるで変わらない。廊下の薄暗い照明が顔に影を落とし、黒い瞳が彼女を貫いた。

伊代妃奈の血が凍る。

ドアを閉めようとした瞬間、手のひらが扉を押さえた。

「俺の息子はどこだ」

「あなたの息子? いなくなったなら警察へ行けばいいでしょう。どうして私の家に来るの。庄司さん、住居侵入は違法よ」

「伊代妃奈」庄司景悠の目が細まる。「とぼけるな。監視に映ってる。お前が抱えて、うちから連れ出した」

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