第1章 夫と息子は彼女を嫌っている

「ママなんて大っ嫌い! 運動会に来ないで!」

 池川里緒は少し離れた場所に立ち尽くし、夫の重久瑛介にしがみついて泣きわめく息子を見つめていた。胸の奥が、ぎゅっと痛む。

 昨夜、息子は「迎えに来ないで。家にいて」と言った。学校で何か嫌な思いをしているのに、言い出せないのではないか――そう思って、里緒は朝早くから園に来たのだ。

 けれど、着いてすぐ目に入ったのは、幼稚園の運動会だった。

 息子の重久綾斗は、若くて綺麗な女の手をぎゅっと掴んで離そうとしない。

「ママの服、ダサいんだもん! 来るたび恥ずかしい! それよりおばさんのほうがいい! きれいで優しいし! 運動会はおばさんと出る!」

 池川里緒は綾斗の隣にいる女をじっと見た。やわらかな物腰、隙のない化粧、上品な佇まい。対して自分は、地味で飾り気のない服装。

 目の奥がすうっと冷えていく。

 かつての彼女もまた、社交界でひときわ目を引く令嬢だった。デザインの才にも恵まれ、将来は明るかった。

 だが、結婚してからすべてが変わった。息子は身体が弱く、病院通いが絶えない。夫は仕事に追われ、家にいる時間も少ない。結局、里緒は夢も仕事も手放して家庭に入った。

 それなのに。

 心を砕いて尽くし続けた末に返ってきたのは、息子の露骨な嫌悪だった。

 池川里緒は思わず重久瑛介を見た。夫なら、ひと言くらいは庇ってくれると思ったのに。

 三十を過ぎても、瑛介は相変わらず人目を引く男だった。彫りの深い目元、すっと通った鼻筋。雑踏の中でもひときわ目立つ顔立ち。

 七年前、初めて会ったときも、この顔に心を奪われた。

 彼のためにすべてを捨て、喜んで専業主婦になった。

 けれど、彼女を守る言葉はついに来なかった。

 重久瑛介は息子を咎めるどころか、隣の女の肩を軽く抱いてから、いかにも面倒そうに里緒の前まで歩いてくる。

「先に帰れ。綾斗が今日は珍しく楽しそうなんだ。水を差すな」

 そのとき、女も微笑みながら近づいてきた。

「あなたが義姉さんですよね? 前谷明梨です。ずっとF国で勉強していて、最近帰ってきたんです」

 池川里緒はわずかに眉を寄せた。そこでようやく思い出す。

 重久瑛介には養妹がいた。母親の親友の娘で、両親を亡くしたあと重久家に引き取られた子――前谷明梨。

 やがて二人の仲が露見し、重久家は受け入れきれず、無理やり引き離して明梨を海外留学に出した。以来、音信不通になっていたはずだった。

 息子はまだ泣きわめいている。前谷明梨は里緒をちらりと見て、笑みを浮かべたまま言った。

「子どもって、そういうものですから。義姉さん、気にしないでください。私がうまく言って聞かせます」

 ――自分の息子を、よその女が言い聞かせる。

 あまりに皮肉で、笑うことすらできなかった。

 池川里緒は顔をこわばらせる。

「結構です、前谷さん。私の息子のことは、私がちゃんと教えます」

 前谷明梨は一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間には困ったように重久瑛介の袖を引いた。

「瑛介兄さん……義姉さん、私に怒ってるのかも。やっぱり、私が先に帰ったほうが――」

 すると重久綾斗がすぐさま駆け寄って、前谷明梨の脚にしがみつき、その勢いのまま池川里緒をどんと突き飛ばした。

「おばさん、行かないで! ママが帰って!」

 池川里緒はよろめき、そのまま床に尻もちをついた。硬い感触が骨まで響いて、ずきりと痛む。

 重久瑛介は手を差し伸べようともしない。むしろ見下ろすようにして責めた。

「どういうつもりだ? 明梨が好意でお前の代わりに運動会へ出てやろうとしてるのに、その態度か」

 池川里緒は痛みをこらえながら立ち上がった。声が震える。

「私は代わってほしいなんて頼んでない。それに、そもそも誰も私に知らせてくれなかったじゃない」

「つまり、俺たちが悪いって言いたいのか?」

 重久瑛介の声が、すっと冷える。

「まず自分を省みろ。なぜ綾斗が明梨を選ぶのか、なぜお前を嫌がるのか。母親としてやるべきことを本当にやってきたのか?」

 夫は他の女を庇い、妻を責める。

 池川里緒は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 この家のために、彼女はすべてを捧げてきた。それなのに感謝どころか、「母親失格」と責め立てられる。

 これ以上の皮肉があるだろうか。

「義姉さん、やっぱり先に帰ったほうがいいと思います」

 前谷明梨が、やわらかな声に棘を混ぜて言う。

「そのままだと、綾斗がかわいそうですし。恥ずかしいでしょう?」

 池川里緒の心は、音を立てて冷え切った。

 綾斗の母親は自分のはずなのに。今や、息子に恥をかかせる元凶扱いだ。

 思えば数週間前から、息子は「優しくて綺麗なおばさんがよく遊んでくれる」と口にしていた。夫が前谷明梨の名を出すときも、目元はどこか柔らかかった。

 気づけなかった自分が愚かだった。母親の居場所は、もうとっくに別の女に奪われていたのだ。

「……分かった。帰るわ」

 池川里緒は絶望のまま俯き、背を向けた。

 その背中に、息子の弾んだ声が突き刺さる。

「やった! ママ、やっと帰った! おばさんと一緒に運動会に出られる!」

 鼻の奥がつんと痛み、視界が滲んだ。

 里緒は職員室へ向かい、教師にひと言挨拶をした。教師は申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません、重久さん。綾斗くんが叔母さまを呼んでいたなんて……こちらから先にお伝えするべきでした」

 池川里緒の視線は、教師の背後に貼られた運動会のポスターへ吸い寄せられた。大きく書かれていた文言。

 ――保護者参加。お父さんとお母さん、必ず一緒に。

 胸が鈍器で殴られたように痛んだ。じわじわと、細かい痛みが全身に広がっていく。

「先生、気にしないでください」

 池川里緒は力なく首を振る。

「これから綾斗のことで、私にお電話をくださらなくて結構です」

 息子が母親として認めたくないのなら――望み通りにしてやろう。

 幼稚園の門を出たとき、背後から大きな歓声が上がった。

 振り返ると、重久綾斗が表彰台の上でメダルを高く掲げている。左右には前谷明梨と重久瑛介。二人は同時に、綾斗の幼い頬へちゅっと口づけた。

 あたたかくて、幸せそうで。

 まるで――あの三人こそ、本当の家族みたいだった。

 池川里緒はこらえきれず、涙を頬に伝わせた。

 どうやって重久家へ戻ったのか、自分でもよく覚えていない。クローゼットを開け、奥からスーツケースを引っ張り出す。

 恋人だった頃、重久家は上流階級の中では池川家に及ばず、両親も瑛介を快く思っていなかった。けれど里緒は耳を貸さなかった。意地でも彼と結婚すると決めていた。

 結婚後は実家の人脈も資金も惜しみなく注ぎ込み、重久グループを目立たない小企業から上場企業へと押し上げた。

 始まりから終わりまで、池川里緒はずっと重久瑛介の背中を支える女だった。

 努力すれば、この家は幸せになれる。そう信じていた。

 ――今となっては、笑い話だ。

 クローゼットに並ぶのは夫と息子の服ばかり。自分の服は数えるほどしかない。その事実が、ひどくもの悲しかった。

 荷造りを終え、離婚届を一通、化粧台の上に置く。そして玄関へ向かった。

 階段に差しかかったところで、息子のはしゃいだ声が聞こえてくる。

「おばさんが一番! フライドチキン食べさせてくれるし、おもちゃも買ってくれる! ママなんて、まずい野菜ばっかり食べさせるんだもん!」

 綾斗はまだ成長期だ。だからこそ、ジャンクフードばかり食べさせたくなかった。毎日工夫して野菜を食べさせてきたというのに、それすら不満に変わる。

 池川里緒が階下を見下ろすと、重久綾斗は前谷明梨の手を握り、三日月みたいに目を細めて笑っていた。

「おばさん……誰もいないときだけ、ママって呼んでもいい?」

次のチャプター