第2章 どっちが本当のママなの?
前谷明梨は重久綾斗の頭をそっと撫で、やわらかく微笑んだ。
「もちろん! 呼び方なんて、綾斗の好きなようにしていいよ」
池川里緒は階段の踊り場で立ち尽くし、スーツケースの取っ手をぎゅっと握りしめた。指の関節が白くなる。
七年。尽くして、支えて、擦り減らしてきた。
その果てに待っていたのが、息子の「他の女をママにしたい」という願い――。
里緒は深く息を吸い込み、スーツケースを引きずりながら、一段ずつ階段を下りた。
重久瑛介が彼女の手元を見て、眉をひそめる。
「……何をしてるんだ」
前谷明梨も顔を上げ、すぐに泣きそうな表情を作る。
「義姉さん、誤解しないでくださいね。綾斗は子どもだから、冗談で……」
里緒は二人を見もしないまま、まっすぐ息子の前に歩み寄るとしゃがみ込み、静かな声で言った。
「綾斗。ママ、聞くね。本当に……おばさんをママにしたいの?」
重久綾斗はぱちぱちと瞬きをしただけで、迷いは欠片もなかった。むしろ目を輝かせ、弾む声で返す。
「ほんとにいいの? おばさんがママになったら、ぼく、すっごく嬉しい!」
その一言で、里緒の胸の奥が、音を立てて砕けた。
重久瑛介の顔が険しく沈む。
「池川里緒! どういうつもりだ。子どもの前でそんなこと言うな」
「別に、何も」
里緒は立ち上がり、感情の抜け落ちた目で夫を見た。
「重久瑛介。あなたも綾斗も、前谷明梨のほうが重久奥さんにふさわしいって思うなら……叶えてあげる」
前谷明梨は慌てて一歩出て、申し訳なさそうに首を振る。
「義姉さん、怒らないで。全部、私が悪いの。私を責めてください。瑛介兄さんと喧嘩しないで……」
――吐き気がするほど、わざとらしい。
里緒はこれ以上関わりたくなかった。スーツケースを引いて、玄関へ向かう。
「瑛介兄さん、追いかけて宥めてあげてください」
前谷明梨が甘く促す。
重久瑛介は鼻で笑った。
「放っておけ。外で数日、頭を冷やせばいい」
重久綾斗まで口を揃える。
「そうだよ! おばさん、ママのこと気にしないで。ぼく、おばさんがいればいいもん! ママいらない!」
里緒は絶望のまま目を閉じた。涙が、音もなく頬を伝う。
ドアを開けて外へ出る。二度と振り返らなかった。
そのままスーツケースを引きずり、夜の街を当てもなく歩き続ける。どれほど歩いたのか、気づけば親友・矢川七海の家の前に立っていた。
七海は玄関先で彼女を見て目を丸くする。
「こんな時間にどうしたの? ……その荷物。どうしたのよ。綾斗は?」
里緒は口角を引きつらせ、かすかな苦笑を浮かべた。
「七海……私、たぶん離婚する」
今になって思えば、兆しはいくらでもあった。
結婚してから重久瑛介はずっと冷淡だった。子どもが生まれても、外に連れ出して「妻」として隣に立たせることはほとんどない。
けれど前谷明梨が帰国した途端、夫は彼女と綾斗を連れて遊び回り、忙しいはずなのに運動会にまで顔を出した。
冷たい性格なんかじゃない。――自分にだけ冷たいのだ。
一部始終を話すと、七海の顔がみるみる赤くなる。
「最低! 前谷明梨って何者よ、どっから湧いたの。どうせ性悪のぶりっ子でしょ! 綾斗も……あの子、何様よ。里緒がどれだけ――」
里緒は笑ってしまいそうなほど弱々しく首を振った。
「子どもは分からないよ。遊んでくれて、美味しいものをくれて……そういう人になつく。私がダメなんだよ。実の息子にまで嫌われるなんて」
「そんなこと言わないで」
七海は里緒の手をぎゅっと握る。
「で、これからどうするの?」
里緒は少し沈黙してから、かすれる声で言った。
「海外のオファーに返事した。向こうで働く」
七海が目を見開く。
「F国のデザイン会社? 3年のやつ?」
里緒は小さく頷いた。
「……綾斗は? 手放せるの? 里緒、あの子産むとき命がけだったじゃない。親権、争わないの?」
里緒は睫毛を伏せ、声を落とす。
「手放したくない。でも……もう私を必要としてない。新しいママがいるから」
七海は堪えきれないように抱きしめた。
「里緒、安心して。最高の弁護士、私が用意する」
里緒は肩に額を預け、涙が止まらなかった。
翌日。里緒はビザの手続きに向かった。
手続きを終えて建物を出たところで、携帯が鳴る。幼稚園からだった。
「重久奥さん! 綾斗くんが園で転んでしまって……すぐ来ていただけますか?」
胸がきゅっと縮む。考えるより先にタクシーを拾っていた。
どれだけ拒まれても、あの子は自分が産んだ命だ。見捨てるなんて、できない。
途中、焦って足を滑らせた。ぐしゃり。泥が服に広がる。それでも立ち上がって走った。
医務室の前に辿り着くと、扉の向こうに前谷明梨の姿があった。ベッドの脇に腰を下ろし、綾斗の脚に薬を塗りながら、やさしい声で尋ねている。
「痛い?」
重久綾斗のすねは擦りむいただけで、大した傷ではない。それでも痛みに顔を歪めながら、彼は明梨に向かってにこっと笑った。
「痛くない! ぼく男の子だもん! 将来、おばさん守る!」
里緒はその横顔を見つめ、喉の奥が詰まった。
家では少し熱が出ただけでも腕の中で大泣きするのに。別の女の前では、こんなふうに強がれる。
喜ぶべきか、寂しがるべきか――わからない。
やがて子どもたちが集まり、明梨の姿に目を輝かせる。
「綾斗、いいなー! きれいで若いママがいて!」
「当たり前!」
綾斗は得意げに顎を上げた。
「ぼくのママ、世界一だもん!」
里緒は扉口でその言葉を聞き、鈍い痛みが全身を貫いた。
彼の言う「ママ」は、自分ではない。
だからこそ、これまでの子育てが――馬鹿みたいに思えてくる。
先生が里緒の隣に立ち、綾斗へ声をかけた。
「綾斗くん、ママが来てくれたよ」
子どもたちが一斉に里緒を見る。地味な服に泥。息を切らした、みすぼらしい姿。困惑が広がった。
「綾斗、ママが二人いるの?」
「どっちが本当のママなの?」
好奇心の声が刺さる。
重久綾斗の顔が真っ赤になった。里緒を睨みつけ、声を張り上げる。
「この人、ママじゃない! うちの家政婦だもん!」
ざわり、と子どもたちが顔を見合わせる。
「だよね。綾斗のパパって企業の社長でしょ? ママがホームレスみたいなわけないもん」
「こっちのお姉さんの方がママっぽい!」
前谷明梨は訂正しようともしない。むしろ、誇らしげに口元を緩めている。
里緒は心臓を握り潰されたみたいに、息ができなかった。
汚れた服を見下ろし、明梨の高級な仕立てのスーツを見る。
――息子が認めないのも無理はない。
そう思ってしまう自分が、惨めでたまらなかった。
先生が耐えかねたように眉を寄せる。
「綾斗くん、そんな言い方……この方は……」
