第3章 これからは全部あなたのもの

彼女が言い切る前に、池川里緒はそっと手を上げて制した。

口元に浮かんだのは、苦い笑み。どうにか声だけは平らに保つ。

「先生。綾斗が無事なら、私は帰ります」

担任は困ったように眉を下げ、それでも里緒を気遣う目を向けた。

「重久奥さん……気にしないでくださいね。子どもはまだ分からなくて……」

里緒は小さく首を振った。もう、とっくに心は麻痺していた。

背を向け、幼稚園の門を出た、その瞬間。

背後からぱたぱたと足音が追いかけてくる。

「義姉さん!」

前谷明梨が追いつき、相変わらず分かってる女みたいな顔で言った。

「これからは学校に来なくていいと思うんです。子どもって今、面子を気にする年頃だし、比べたがるし。義姉さんみたいだと、綾斗の自尊心が傷ついちゃう」

里緒は笑った。

「つまり、母親として恥ってこと?」

明梨はもう無垢を装わなかった。唇を吊り上げ、腕を組む。

「瑛介兄さんの言う通り。あなたみたいに洗濯と料理しかできない専業主婦が外に出たら、あの子が可哀想でしょ。恥をかくだけ」

そして一歩、距離を詰める。二人にしか届かない声で囁いた。

「離婚したら? どうせ瑛介兄さんは、もともと私のものなんだから」

池川里緒は、完璧に整えられたその顔を見て、鼻で笑う。

「いいよ」

明梨が一瞬、言葉を失う。

里緒は淡々と告げた。

「子どもも、夫も。これからはあなたのもの」

それだけ言い残し、池川里緒は振り返らずに歩き出した。

幼稚園を離れ、大通りを当てもなく彷徨いながら、里緒は思い出していた。

綾斗を身ごもった頃。あの子は小さくて柔らかくて、抱けば綿の塊みたいだった。

初めて「ママ」と呼んだ声。手を支えて歩かせた日々。

幼い頃はあんなに彼女にべったりだったのに、いつから冷たくなったのだろう。躾けても反発し、言うことを聞かなくなっていった。

反抗期だと思っていた。けれど、今日の光景でようやく目が覚めた。

家庭のために自分を削りすぎて、息子にとって誇れる母親ではなくなってしまったのだ。

そのとき、携帯が鳴った。

里緒は目尻の涙を指で拭い、通話に出る。

「池川里緒様でしょうか。F国OCグループです。任用の申請が承認されました」

続けて、事務的な声が言う。

「お子さまがいらっしゃるとのことですので、当社でインターナショナルスクールの枠もご用意できます。F国での生活費も、お子さま分は当社で負担が可能ですが――必要でしょうか」

里緒は幼稚園のある方向へ振り返り、目を静かにした。

「結構です。私一人で」

その夜。

重久瑛介が帰宅すると、綾斗が新しい玩具を抱えて駆け寄ってきた。

「パパ! 見て! おばさんが買ってくれた!」

瑛介は息子の頭を撫で、室内を見回す。

「綾斗。ママは?」

そういえば、最近池川里緒の姿を見ていない。この時間ならいつもキッチンで動いていたはずだ。

あの日の捨て台詞が脳裏を掠め、瑛介は眉をひそめる。……まさか、本気で拗ねているのか。

けれど、里緒が本当に離れるはずがない。あれほど自分と子どもに執着していたのだから。

綾斗は玩具から目も離さず、ぶっきらぼうに答える。

「知らない。いない方がいいよ! おばさんの方がずっといいもん。ぼく、おばさんがいればいい!」

瑛介は何も言わず、ただ頭を撫でた。

息子を寝かしつけたあと、階下で使用人に尋ねる。

「奥様は、この数日戻ったか?」

石川さんが頷いた。

「昨日、少し荷物を取りに戻ってきて、そのまま出て行きました。あと、こちらを旦那様に渡すようにと」

差し出された書類袋を受け取り、瑛介は中を開ける。

――離婚協議書。

最後に、池川里緒の署名。

瑛介の表情が一気に沈んだ。

「……池川里緒。やるじゃないか」

携帯を取り、番号を押す。しかし繋がらない。着信拒否――。

画面を睨み、眉間の皺が深くなる。

数日後。

矢川七海の家で、池川里緒は書類を整理していた。

そのとき、リビングの固定電話が鳴る。七海は不在。急用かもしれず、迷いながら受話器を取った。

「もしもし? どちらさまですか」

呼びかけても無音が続く。切ろうとした瞬間、馴染みの声が落ちてきた。

「池川里緒。俺だ」

手が強張る。重久瑛介。

「重久社長。ご用件は?」

冷たく返すと、瑛介は用件に答えず、いつも通り高圧的だった。

「綾斗の画帳が見当たらない。どこに置いた?」

里緒は息を吸い込む。

「重久瑛介。私たち離婚するの。あなたの息子の物は、自分で探して」

電話の向こうで、嘲るような笑いが漏れる。

「離婚? 専業主婦が、俺と別れて何ができる。池川グループの大型案件、どれだけ俺の投資で回ってると思ってる?」

「今すぐ戻ってこい。なかったことにしてやる。そうしないなら――後悔するぞ」

一方的に切られた。

里緒はソファに崩れ落ち、唇を噛みしめた。肩が小刻みに震える。

七年の結末が、夫と息子の裏切りだけじゃない。脅しまでついてくるなんて。

そのとき携帯が鳴り、母の切羽詰まった声が飛び込んできた。

「里緒、早く病院に来て! お父さんが……もう危ないの!」

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