第4章 瑛介にお願いしに行こう
池川里緒は病院へ駆け込んだ。
母・松井美海は長椅子に座り込んでいて、目はもう真っ赤に腫れている。
「……お母さん!」
里緒は早足で近づく。息を整える暇もなく、矢継ぎ早に訊いた。
「お父さん、どうなの?」
松井美海は顔を上げ、娘を見た瞬間、堪えていた涙がまた溢れた。
「お父さんが……今、中で救命処置してもらってるの。先生がね、状態がよくないって……急性心筋梗塞で、運ばれてきた時点で、もう……」
言葉の先が続かない。声は喉の奥で震え、嗚咽に変わった。
里緒の心臓がぎゅっと縮む。耳鳴りがして、視界が揺れた。
――どうして、こんな急に。
里緒は母の冷えた手を握り、必死に自分を落ち着かせる。
「お母さん、怖がらないで。お父さんはきっと大丈夫。絶対、大丈夫だから」
言い終える前に、処置室の扉が開いた。
険しい表情の医師が出てくる。
「ご家族の方ですか」
「娘です!」里緒はすぐ前へ出た。「父は……どうですか」
「ひとまず命は取り留めました」
母娘は同時に息を吐いた。だが医師は続ける。
「長期の過労で心臓に負担がかかっていたところへ、最近の強い精神的ストレスが重なったのでしょう。今回は助かりましたが、今後は絶対安静です。二度と無理はできません」
里緒は何度も頷いた。
「ありがとうございます。必ず気をつけます」
看護師がベッドを押し、父が運ばれてくる。里緒は駆け寄った。
父は力なく横たわり、顔色は紙みたいに白い。唇は紫がかっていて――まるで、突然十歳年を取ったように見えた。
鼻の奥がつんと痛み、目の縁が熱くなる。
記憶の中の父は、いつだって意気軒昂で、雷のように決断の早い池川グループの舵取り役だった。会社がどんな局面にあっても、娘の前で弱音ひとつ吐かなかったのに。
それが今は、風に吹かれたら飛んでいってしまいそうな枯葉みたいに脆い。
見ているだけで涙がこぼれそうだった。
父が病室へ移されると、松井美海はベッド脇に座り、夫の手を握ったまま泣き続ける。
里緒はコップに水を注いでサイドテーブルへ置き、静かに尋ねた。
「お母さん……どうして急に倒れたの? お父さん、体はずっと大丈夫だったじゃない」
松井美海は涙を乱暴に拭った。
「会社のせいよ。ある案件がトラブルを起こして、お父さん、毎晩徹夜で……ひどいときは午前3時、4時まで書斎で書類を見てるの。止めても聞かないのよ。『池川グループがかかってる、絶対にミスは許されない』って……」
里緒の眉がきつく寄る。
「どの案件?」
「新能源のプロジェクトよ」松井美海はため息をついた。「あれは、お父さんと瑛介が一緒に投資したでしょ。前にかなりの額を入れたのに……最近、進捗が悪くて、資金繰りも危ないって。お父さん、焦って……でも瑛介に迷惑かけたくないからって、一人で抱え込んでたの」
里緒の胸が沈む。
その案件は、もともと自分が繋いだ話だった。結婚してから、池川グループと重久グループの関係をもっと強くしたくて――必死に取り持ってきた。
それが、父を倒す最後の一押しになるなんて。
「瑛介は、何て言ってるの?」里緒が問う。
松井美海は首を振った。
「忙しいって。電話もあまり出ないって言ってた。案件の話もずっと進まなくて、お父さんも焦ってるのに、強くは言えないのよ。関係が拗れるのが怖いから」
忙しい――当然だ。
前谷明梨にかかりきりで、案件どころじゃない。
里緒は唇を噛みしめた。
そのとき、松井美海がふいに顔を上げ、娘の手を握りしめる。声にははっきりと懇願が混じっていた。
「里緒……お母さん、分かってる。あなたがこれまで家庭のためにどれだけ我慢してきたか。でも、お父さんがこんなことになって……お願い。瑛介に話して、プロジェクトの件、助けてもらえない?」
喉が詰まった。
――もう、離婚するのに。
そう言いかけて、里緒は飲み込む。
父が倒れているのに、母まで不安にさせたくない。
「……分かった」
里緒は頷いた。
「お母さん、安心して。この件は私が何とかする」
松井美海はほっと息をつき、娘の手の甲を撫でる。
「やっぱり里緒は偉い子ね。あなたと瑛介がちゃんとしてくれたら、この家もちゃんと――」
里緒は口元だけで笑った。何も言えなかった。
その夜、里緒は病院に付き添い、父の状態が落ち着いたのを確認してから外へ出た。
夜風が冷たく、思わず身震いする。
街灯の下でスマホを取り出し、連絡先の中の――自分がブロックした番号を見つめた。
長い沈黙の末、里緒はブロックを解除し、重久瑛介に発信した。
呼び出し音が長く続き、ようやく繋がる。
「……もしもし?」
「私」
数秒の沈黙。そして、鼻で笑うような気配が落ちてきた。
「なんだ。考え直したのか?」
里緒は目を閉じ、息を整える。
「重久瑛介。話がある」
「何の話だ」
「池川グループと重久グループでやってる新能源プロジェクトのこと」
また短い沈黙。
続いて返ってきた声は、さらに冷たかった。
「今さらそれか」
自分のことも、家のことも、何ひとつ聞かずに案件だけ。里緒は奥歯を噛む。
「父がそれで倒れて入院した」里緒は感情を押し殺した。「私たちのことはどうでもいい。でも、案件は両社の利益に関わる。放っておけない」
「勘違いするな」
棘のある声。
「案件はずっとお前の親父が担当してきた。問題が出たから俺に泣きつくのか? 契約のとき、池川家は相当得をしただろ」
――得をした?
胸の奥が冷えていく。
重久グループがA市でまだ無名だった頃、誰が人も金も動かして押し上げたと思っているのか。
けれど今は言い争っている場合じゃない。
里緒は息を吸い、低く言った。
「責任逃れをしたいんじゃない。あなたにも表に出て、一緒に解決してほしいだけ」
「解決?」瑛介が軽く笑う。「いいだろ。明日の午前10時、会社に来い。直接話す」
返事を待たず、通話は切れた。
