第5章 できるだけ早く入ってほしい
翌朝、池川里緒はまず病院へ向かい、父の様子を見に行った。
父は目を覚ましてはいたものの、顔色は悪く、ベッドに横たわったまま言葉を出す力もない。里緒の姿を認めると、かすかに口元をゆるめ、座るよう手で促した。
「お父さん、喋らなくていいよ。ちゃんと休んで」
ベッドの端に腰を下ろし、掛け布団の角をそっと整える。
「会社のことは心配しないで。私が全部、どうにかするから」
父は首を振り、苦しげに唇を動かした。
「里緒……あの案件……瑛介が……」
「分かってる」
里緒は遮るように言った。
「今日、会って話してくる。だからお父さんは治療に集中して。何も考えないで」
父は濁った目で娘を見つめた。そこに浮かぶのは、痛ましさばかりだった。
娘はかつて、A市で誰もが振り返るほど輝いていた。なのによりにもよって、あの重久の男に惚れた。
止めた。叱った。けれど届かなかった。
せめて重久瑛介が、良心だけは持っている男なら――池川里緒がどれほど尽くしたかを、忘れない男なら。
だが、良心ほど当てにならないものはない。
池川グループは傾き、父自身の身体もこの有様だ。娘の背中を支えてやりたくても、もう思うように動けない。
それでも里緒は、頭を下げに行く。
その事実が、父の胸を抉った。
「里緒……父さんは、あのとき本当は……」
言いかけたまま、言葉は途切れた。
今さら誰を責めても、何も戻らない。
里緒は鼻の奥がつんと熱くなり、父の手をぎゅっと握る。
「ごめんね、お父さん。私が悪かった」
声が少し震えた。
「だから、休んで。もう考えないで。残りは私がやるから」
病院を出て車に乗り込み、里緒は重久グループ本社ビルへ向かった。
道中、スマホが鳴る。見知らぬ番号だった。
「もしもし。池川里緒様でいらっしゃいますか」
「はい。どちらさまでしょうか」
「OCグループ、デザイン部の責任者です。以前メールでやり取りをさせていただいたのですが、覚えていらっしゃいますか」
里緒は一瞬きょとんとして、すぐに思い当たった。
「覚えています」
「ありがとうございます。お送りいただいたポートフォリオ、非常に素晴らしかった。ぜひ一度、具体的なお話を直接させていただきたくて。ご都合いかがでしょう」
里緒は迷った。
「今日は少し用事があって……別日にできますか」
「もちろん可能です。ただ、私は明日F国へ戻る予定でして。もし今日、少しでもお時間をいただけるなら……長くは取りません」
時計を見る。10時までまだ余裕がある。重久グループのビルもすぐ近くだ。
「分かりました。どちらに伺えばいいですか」
「重久グループ本社ビルの隣のカフェ、ご存じでしょうか」
……そんなところで?
里緒は思わず目を瞬かせた。
「はい」
十分後。
カフェの扉を押し開けた里緒は、窓際の席に座る男の姿を一目で捉えた。
三十歳ほど。濃紺のスーツに、整った顔立ち。柔らかな物腰が印象的だった。
その顔を見た瞬間、里緒の足が止まる。
「……中浦先輩?」
男は顔を上げ、次の瞬間には立ち上がって笑った。
「里緒。久しぶりだね」
OCグループのデザイン部責任者が、大学の先輩――中浦優斗。
想像もしなかった再会に、里緒は言葉が詰まる。
中浦優斗は里緒より二つ上で、デザイン学院でも天才と呼ばれた存在だった。在学中から何かと気にかけてくれて、卒業後はF国へ渡り、そのまま連絡も途切れたはずなのに。
「先輩、どうして……」
「OCでデザインディレクターをしている。去年から国内支社の担当で帰国していてね」
中浦は椅子を引き、穏やかに促した。
「君のポートフォリオ、ちょうど本社で見かけた。最初は信じられなくてさ。名前を何度も確認したよ」
里緒は座り、目の前の先輩を見つめた。
変わらない。あの頃のまま、前を向いている。
自分は――。
「全部、拝見した」
中浦は里緒の逡巡を見透かしたように、やわらかな声で言った。
「里緒。才能は消えてない。うちのトップ層に混ぜても、見劣りしないよ」
里緒は苦笑した。
「先輩、慰めないでください。私、7年もデザインから離れてました。出せるのは昔のものばかりで……」
「違う」
中浦は首を振る。
「新しい作品には、以前と違うものがある。繊細で、温度がある。君が過ごした時間が、そのまま線に乗ってる」
里緒は睫毛を伏せ、何も言えなかった。
中浦はそれ以上踏み込まず、微笑んだまま話題を変える。
「それで相談なんだけど、入社時期を前倒しできないかな。本社も君に期待していて、できるだけ早くチームに入ってほしいらしい」
少し身を乗り出し、続ける。
「ちょうど国内支社で重要案件があってね。僕が君を推薦した。F国へ行く前に、職場の感覚を戻す意味でも、早めに入ってくれないか」
「そんなに早く……?」
里緒は驚いた。
けれど、確かに好機だ。国内で少し整えてから渡航してもいい。何より、父の容体が不安定な今、そばにいられる時間は少しでも欲しい。
里緒は大きく考えすぎないようにして、頷いた。
「……お願いします。できるだけ早く」
*
一方その頃。
重久綾斗は食卓の前で、好物のフライドチキンを前にしていた。だが箸は進まず、つついては止め、つついては止める。
ふいにぽつりと呟く。
「パパ。ママは?」
スマホを見ていた重久瑛介が、意外そうに顔を上げた。ここ数日、息子が池川里緒の名前を出すことはなかったのに。
「ママは用事だ」
「ふうん……」
綾斗はまたチキンをつつき、今度は小さな声で言った。
「パパ、ママの野菜サラダ、食べたい」
瑛介の眉がわずかに寄る。
あれほど野菜を嫌がって泣き喚いていたのに、どういう風の吹き回しだ。
「野菜嫌いだろ」
綾斗は口を尖らせ、ぼそぼそ言い訳する。
「でも、おばさんのチキン、油っこくてお腹痛くなる……。ママのサラダ、ほんとはちょっと美味しいんだもん」
瑛介は黙ってスマホを置いた。
「ママはしばらくいない。別のものを食べろ」
「いつ帰ってくるの?」
綾斗の目がきらきらする。
「……そのうちだ」
曖昧に返した、そのとき。
瑛介のスマホが鳴った。
「明梨。もう着くのか? 分かった、迎えに行く」
そう言うなり、瑛介は席を立ち、レストランを出ていった。
綾斗はチキンを一つ口に運びかけ、ふと手を止める。
結局、皿に戻した。
