第6章 実に恥ずかしい

午前10時。池川里緒は時間どおり、重久グループ本社ビルの正面玄関に立っていた。

見上げた先には、雲を突くほどの高層ビル。胸の奥に、言葉にしがたいものが渦を巻く。

この一等地。

かつては競争入札で名だたる企業がこぞって名乗りを上げたのに、重久グループの提示額は安く、とても勝ち目があるとは言えなかった。

それでも――重久瑛介が「欲しい」と言った、その一言で。

池川家の人脈と資源を総動員し、彼女はこのビルを引き当てた。妬みの視線をいくつも浴びながら。

あの頃の里緒は、臨月のお腹を抱えながら、瑛介と一緒に役所や関係部署を駆けずり回った。疲れ果て、足がむくんで靴すら入らない日があっても、一度だって愚痴はこぼさなかった。

なのに今――このビルの前に立つ自分は、まるで他人だ。

里緒は深く息を吸い、足を踏み出した。

ロビーは人の波で落ち着かない。誰もが忙しなく行き交い、目を合わせる余裕すらない。

受付の若い女性が里緒を見て、きょとんとし、しばらくしてからはっとした。

「……重久奥様?」

「重久瑛介に会いに来ました」

里緒が淡々と言うと、受付は慌てて端末を確認した。

「社長は重要なお客様のお迎えに出ておりまして、まだお戻りではありません。よろしければラウンジで――」

「いいです。上で待ちます」

里緒はそれだけ告げ、エレベーターへ向かった。

だが、ホールに差しかかった瞬間。

背後がざわついた。

振り返ると、重久瑛介が正面玄関から入ってくるところだった。取り巻きが数人、前後に連なっている。

そして――その隣に、前谷明梨。

明梨は瑛介の腕に絡みつき、顔を上げて何かを話している。瑛介はわずかに横顔を寄せ、口元に淡い笑みを浮かべながら、時折うなずいた。距離が近すぎる。親密すぎる。

里緒は一瞬、息を忘れた。

次いで、胸の内で乾いた笑いが落ちる。

瑛介は仕事を第一にする男だ。普段なら午前中にはもう社内にいる。それがこの時間に現れた理由――「重要な客」とは、結局この女だったのか。

彼女のためなら、遅刻も例外になる。

里緒はぐっと息を飲み込み、溢れそうな感情を押し殺した。無表情のまま、二人が近づいてくるのを見据える。

最初に気づいたのは明梨だった。

明梨はわざとらしく足を止め、瑛介の腕をさらに強く抱き、笑みをいっそう華やかにする。

「まあ。義姉さん? どうしてここに?」

瑛介もようやく顔を上げ、里緒を視界に捉えた。眉がわずかに寄る。

明梨は里緒を上から下まで眺め、手で口元を隠してくすりと笑う。

「義姉さん、今日はそんな格好で会社に? てっきり――」

最後まで言わない。けれど、十分だった。

里緒の服はアイボリーのシャツにネイビーのスカート。クローゼットの中では数少ない「きちんとした部類」。髪はひとつに結び、ノーメイク。

普段の街なら何もおかしくない。だが、ブランドスーツと完璧なメイクで固めた人間が行き交うこのビルの中では、確かに浮く。

周囲の視線が一斉に集まった。

瑛介の眉間の皺が深くなる。露骨な不快感。

「来るなら、事前に言え」

里緒は思わず笑いそうになった。

「あなたが呼んだんでしょう」

冷えた声で返す。

「昨日の電話で、午前10時に来いって。案件の話をするって、あなたが言った」

瑛介の表情が一瞬止まる。ようやく思い出したようだった。

明梨がすかさず割って入る。

「義姉さん、怒らないで。瑛介兄さん、最近本当に忙しくて、うっかり忘れちゃったのかも。せっかく来たんだし、上に行きましょう? でも、そのままだと……」

わざと考えるふりをして、にこりと笑う。

「私、車に着替えの予備があるの。新品のシャネルのスーツ。よかったら着替えて? 義姉さんのその服より――」

「結構です」

里緒は冷たく遮った。

「私が何を着るかは、前谷さんに口を出される筋合いはない。私は重久社長と話をしに来ただけ。終わったら帰ります」

言い切って、踵を返す。エレベーターへ向かおうとした、そのとき。

「待て」

瑛介が呼び止めた。

振り向くと、氷のような視線。

「明梨は善意で言ってる。それを潰す気か?」

「なぜ私が着替える必要があるの?」

里緒は一歩も引かない。

「私は話をしに来た。レッドカーペットを歩きに来たんじゃない」

瑛介が鼻で笑う。

「逸らすな。明梨のことを言ってる」

明梨が一歩進み、柔らかな声で追い打ちをかけた。

「瑛介兄さん、もういいの。義姉さんは子育てで忙しくて、お洒落する余裕がないだけ」

周囲の若い社員たちが、ひそひそと声を交わす。

「え、あれが重久奥さん……?」

「名家の令嬢って聞いたけど、今はあんな感じなんだ」

「社長があまり連れて歩かないの分かる。ちょっと……」

「前谷さんの方がずっと上品だよね。綺麗だし」

「養妹で留学帰りで有能って、本当らしいよ」

針が耳に刺さるみたいだった。

明梨は優雅に髪を払って微笑み、里緒へ向き直る。

「義姉さん、意地張らないで。私のスーツ、本当に似合うと思う。試してみて?」

里緒は、胸の奥で込み上げる吐き気を飲み込んだ。

善意の仮面。心配しているふりをしながら、わざわざ人前で泥の中に押し込む。

里緒は低く言った。

「前谷さん。私と重久瑛介は夫婦です。夫婦の話に、部外者が口を挟まないで」

明梨の笑みがぴしりと凍る。

次の瞬間には目尻を赤くして瑛介に縋りついた。

「瑛介兄さん……私、ただ助けたかっただけなのに。義姉さん、どうしてそんな言い方……」

瑛介の顔が沈みきった。

明梨の手の甲を軽く叩き、冷たく言う。

「明梨、気にするな。分からない奴は、分からない」

そして里緒へ視線を投げた。

「明梨に謝れ」

里緒は歯を食いしばる。

「……嫌です」

「なら、話は終わりだ」

瑛介はそう言い捨てると、取り巻きを連れてエレベーターへ向かった。

里緒は息を吸い、追いすがるように歩き出す。

「重久瑛介!」

その瞬間、黒服の男が二人、無言で前に立った。

腕が伸び、進路を塞ぐ。

「奥様、申し訳ありません」

感情のない声。

里緒は立ち尽くしたまま、瑛介たちがエレベーターへ乗り込むのを見送った。扉がゆっくり閉まっていく。

ロビーの空気がざわつく。

「さすがにあれは……」

「奥さんを人前で止めるなんて、面子丸つぶれじゃない?」

「でもさ、可愛がられてないんでしょ。前谷さんへの態度、見た?」

里緒は唇を強く噛んだ。目の縁が熱くなる。それでも顎を上げ、涙だけは落とさなかった。

エレベーターの中で、瑛介は細くなっていく扉の隙間越しに、周囲の視線を浴びる里緒を見ていた。

胸の奥に、理由の分からない苛立ちが湧く。

昔の里緒は、泣きたいときは泣き、笑いたいときは笑った。情緒的すぎる――そう思っていたはずなのに。

いつからだろう。里緒が変わったのは。

その変化を目の当たりにすると、なぜか目障りで、居心地が悪い。

まるで、自分が冷酷な人間みたいじゃないか。

瑛介は苛立ちを誤魔化すように、目を閉じかけ――そして。

扉が閉まりきる、その直前。

ようやく口を開いた。

「……待て」

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