第7章 彼らこそが家族だ
エレベーターの扉が、ゆっくりと開いた。
ボディーガードは池川里緒の前に差し出していた腕を引く。
周囲でひそひそと囁いていた声は、その瞬間ぴたりと止んだ。重久瑛介のそばを固めていた数人の護衛も空気を読んで二歩ほど下がり、池川里緒のために道を空ける。
里緒はその場に立ったまま、深く息を吸った。
そして足を踏み出し、エレベーターの中へ入る。
社長専用のエレベーターは広い。けれど重久瑛介に前谷明梨、さらに随行の秘書や護衛まで乗り込めば、さすがに余裕はなかった。
里緒が入った途端、押し出されるように隅へ追いやられる。
重久瑛介との間には、前谷明梨と秘書が二人。
その距離が、ひどく遠かった。
扉が閉まり、エレベーターが静かに上昇を始める。
前谷明梨は瑛介の横に寄り添うように立ち、体をわずかに彼へ傾けた。細い指先が伸び、彼のネクタイをそっと整える。
瑛介はその親しげな仕草に応えもしない。だが、避けもしなかった。
その光景を隅から見つめながら、里緒は胸の奥をちくりと刺されたような痛みに耐えた。
自分から求めもしない。拒みもしない。
それだけで、もう答えは出ている。
「瑛介兄さん、今日のお昼は何がいい?」
前谷明梨が小首を傾げ、甘えるように訊ねる。
「この近くに新しいレストランができたの。シェフはF国から呼んだ人らしくて、すごく本格的なんだって。お昼、そこに行ってみない?」
「また今度でいい」
瑛介は淡々と答えた。
断られても、明梨は少しも気を悪くした様子を見せない。むしろ笑みをいっそう甘くして、彼の腕にそっと自分の腕を絡めた。そのまま頭を軽く肩へ預ける。
「じゃあ夜は? 綾斗がこの前の和食のお店に行きたいって言ってたの。もう予約してあるんだ」
息子の名が出た途端、瑛介の表情がかすかに和らいだ。
口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「いい。その店にしよう」
里緒は睫毛を伏せ、脇でそっと指を握り締めた。
夜の予定まで、もう決まっている。
父と母と子。
ひとつの家族みたいに。
そこに自分の居場所はない。最初から。
やがてエレベーターは、社長室のある最上階へ到着した。
重久瑛介の執務室に入ると、随行していた者たちは一礼して下がっていく。扉が閉まってから、前谷明梨はようやく池川里緒の存在を思い出したように振り返った。
「義姉さん、さっき瑛介兄さんにプロジェクトの件でお話があるって言ってましたよね。具体的には何のことなんですか?」
にこやかなまま、明梨は続ける。
「よかったら私も一緒に考えますよ。海外ではプロジェクト顧問みたいな仕事もしてましたし、少しくらいはお力になれるかもしれません」
里緒は目を伏せたまま、静かに答えた。
「結構です。池川家と重久家の話ですので、前谷さんのお手を煩わせることではありません」
明梨の笑みが、一瞬だけ強張る。
だが次の瞬間には、何事もなかったように、いっそうやわらかな声音になった。
「義姉さん、それは違いますよ。私だって重久家の一員ですもの。瑛介兄さんのことは、私のことでもあります。話してくだされば、みんなで知恵を出せますし」
そこで里緒はようやく顔を上げ、明梨をまっすぐ見た。
「前谷さん。あなたは重久家の養女であって、重久家の嫁ではありません」
ひやりと冷たい声だった。
「池川家と重久家の共同事業に、部外者が口を挟む立場ではないはずです」
その一言で、前谷明梨の顔色が変わる。
唇がかすかに白み、みるみるうちに目元が潤んだ。彼女は瑛介のほうへ顔を向け、今にも泣きそうな声を出す。
「瑛介兄さん……私はただ、お役に立てればと思っただけなのに。義姉さん、そんな言い方……」
「もういい」
重久瑛介が口を開いた。
不機嫌を隠しもしない声で、里緒の言葉を遮る。
「池川里緒。用があるならさっさと言え。嫌味を言いに来たわけじゃないだろ」
冷えた視線が、まっすぐ里緒へ向けられる。
「明梨は今日から正式に入社した。今後はうちのプロジェクトアドバイザーだ。案件に関わる話なら、知る権利がある」
里緒の胸の奥で、何かがすっと冷えた。
知らないところで、仕事まで用意していたのだ。
それだけじゃない。わざわざ自分で迎えに行って、こうして会社中に示している。彼女の後ろには自分がいるのだと、誰の目にも分かるように。
けれど今は、そんなことで争っている場合ではない。
父は病院にいる。池川グループも、崖っぷちだ。
里緒は一度、深く息を吸い込んだ。胸の内で荒れ狂う感情をどうにか押し込める。
「池川グループと重久グループで進めている新エネルギー事業の件です」
声はかすかに張り詰めていた。
「プロジェクトで問題が起きて、資金繰りが止まりました。父はその対応に追われて倒れ、今も入院しています。だから、あなたに前に出てほしいんです。問題を解決してほしい」
重久瑛介は何も言わず、ただ里緒を深く見つめた。
その沈黙を破ったのは、前谷明梨だった。
「新エネルギー事業……?」
少し考えるように首を傾げ、それから思い出したように目を見開く。
「ああ、あの案件ですか。でも、あれってずっと池川さん側で管理してましたよね? どうして急にそんなことに……」
わざとらしく言葉を切り、明梨は小さく息を呑む。
「あ……そういえば。数日前にレポートを見たとき、帳簿の数字が合っていない箇所がいくつかあったんです。私、そのことを瑛介兄さんにもお伝えしました。そしたら『池川側で処理させればいい』っておっしゃっていて……まさか、そこまで大ごとになっていたなんて」
最後まで言い切らなくても、意味は十分だった。
悪いのは池川家だ。
重久瑛介には責任がない――そう言いたいのだ。
里緒の手が、脇で小さく震える。
それでも彼女は瑛介から目を逸らさなかった。
「今は、どちらの責任かを言い合っている場合じゃありません」
低く、押し殺した声で言う。
「問題が起きた以上、必要なのは責任の押し付け合いじゃなく、解決です。重久瑛介、あなたに出てきてほしい」
瑛介はしばらく里緒を値踏みするように見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「この前まで離婚だ何だと騒いでいたのは、お前だろ」
その声には、あからさまな嘲りが混じっていた。
「今さら俺に頼るのか?」
里緒は奥歯を強く噛み締めた。
「離婚届に署名までして、俺の机に置いていった。今回は随分と威勢がいいと思っていたが」
前谷明梨が袖口で口元を隠し、小さく笑う。目元には隠し切れない優越が滲んでいた。
重久瑛介は姿勢を正し、里緒を見下ろす。
「池川里緒。お前のいちばん悪いところは、自分を大した人間だと思い込みすぎていることだ」
「離婚をちらつかせれば、俺が何でも言うことを聞くとでも思ったのか?」
その瞬間、里緒の鼓動が大きく乱れた。
次いで、細かい痛みが胸いっぱいに広がっていく。息を吸うたび、針で刺されるみたいに苦しい。
――七年。
尽くして、支えて、削ってきた時間。
そのすべてが、この男にとっては笑い話でしかなかったのだ。
自分だって、もとは池川家の娘だった。守られるだけの箱入り娘ではなく、自分の仕事も、夢もあった。
全部手放したのは、こんな侮辱を受けるためじゃない。
それでも、今は引けなかった。
「私は、喧嘩をしに来たわけじゃないです」
震えそうになる声を、里緒は必死で押しとどめる。
「父は病院にいます。医者からは、もうこれ以上無理はさせられないと言われました。案件のことは……あなたが私をどう思っていても構いません。どうか出てきてください」
そこまで言って、喉が詰まる。
それでも絞り出す。
「長年、夫婦だった情けに免じて」
口にした自分自身が、いちばんその言葉を滑稽だと思った。
夫婦の情け――そんなものが、二人の間に残っているのだろうか。
重久瑛介は数秒、黙っていた。
その視線が、里緒の顔に留まる。
目元はうっすら赤い。けれど涙だけは、意地でも落とすまいと耐えていた。
やがて瑛介が口を開く。
「案件の件は、俺が処理する」
ようやく出た言葉は、どこまでも淡々としていた。
「ただし、今日は時間がない。別の日にする」
「別の日って、いつですか?」
里緒はすぐに問い返した。
瑛介の眉間に皺が寄る。
「……俺を問い詰める気か?」
「確かな期限がほしいだけです」
「調子に乗るな」
声が、すっと冷える。
「処理すると言っただろう。俺の言葉が信用できないのか?」
「重久――」
なおも言いかけた、そのときだった。
コンコン、と扉が叩かれ、秘書がドアを開けた。
